高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

川島雄三『女は二度生まれる』(1961)

大好きなんです。川島雄三。この作品、後から知ったのですが、成人指定だったんですね。というわけで、どうしてもそういう内容になりますのであしからず。しかし 今となっては「え、どこが?」という感じだし、むしろかなりよくできた喜劇だと思います。

川島雄三大映作品。脚本も川島である(井手俊郎と共同)。けっこう豪華なメンバーが出ている。若尾文子山村聰フランキー堺山茶花究、村田知栄子(置屋の母)、山岡久乃山村聰の本妻)、江波杏子(ちょっとぶっ飛んだ女子大生)。びっくりしたのは藤巻潤が出ていたこと。はい、『鬼平犯科帳』に出てくる五鉄の三次郎ですね。この映画では東大生の役ですが、恐ろしいことに全然変わっておりません。

それにしても、いやー、川島雄三、面白いわ。

何て言うんですかね、テンポ? キレがあるっていうか。そして、花柳界、女の世界を描くのが、何でこんなにうまいんですかね。成瀬己喜男は、「女」なるものを暴いて、ロマンの欠片も見せないけど、川島はどこか粋なのだ。いやらしさ、汚さみたいなものが、どこかかわいらしさに転化する。小悪魔的。そして哀しみが滲み出る。『洲崎パラダイス赤信号』もそうだし、『赤坂の姉妹・夜の肌』もそうだった。そんなわけだから、この若尾文子は憎めない。

彼女、いやまあほんとによく寝る(正直、この言葉以外に当てはまらない。関係を持つ、とかじゃないんです)。色々な男と。そりゃあもう、呼吸をするように寝ていく。途中から、この人はもはや不感症なのではなかろうかと、いらぬ心配をしてしまう。不見転芸者、つまり、芸もなく、娼婦と何ら変わりのない芸者を演じている。

しかし不思議なことに、そこには情もなければ変なベタつきもない。色気もなけりゃ誘惑もない。かと言って、受け身に徹するわけでもなし。もう、成り行きでそうなっちゃいましたとしか言いようがないのである。

そんな若尾文子演じる「小えん」こととも子は、筒井(山村聰)の二号さんになり、小唄なんぞを習い始めて、少しずつ変わっていく。ちょっとしたピグマリオン。もっとも、それより面白いのは、嫉妬に狂って畳にドスを刺しちゃったりする山村聰である。この人にしてはけっこう珍しい役ではなかろうか。でも、何をやってもさまになるので、大好きな俳優さんです。

「ペッティングって何?」「愛撫のことよ」とかいう会話が、洗濯物を取り込みながらなされたりするのが妙におかしい。そして同時に、その場面における部屋のインテリアが哀しい。ちぐはぐなのである。つまり小えんは、ごく普通の「家」を知らない。こんなところでさりげなく、彼女の育ちがわかるようになっている。

小えんがひそかに憧れ、唯一、肉体関係のなかった東大生・藤巻潤は、何やら立派な社会人になり、お座敷で小えんと再会する。喜ぶ小えん。しかし藤巻は、接待中のアメリカ人の夜のお相手として、小えんを使おうとする。嗚呼。しかしそれも、さらっとしていて、変に悲劇めいてはいない。そんなもんだよな、という感じで見ることができる。

 それは、小えんという女が、そもそもそういうスタンスだからなのである。一応従順。一応自我もある。愛人が死ねば泣く。本妻には食ってかかる。しかし基本は、というか根底にあるのは、「どうでもいいや」という感じなのである。ちょっと、大岡昇平の傑作『花影』の葉子みたいな感じかなあ。

でも、こういうタイプって、男の人にはたまらないんだろうな、と思います。だからこそ、山村聰はいい歳をして血眼になって所有しようとしたんですよね。そこから自由になろうともしない小えん。束縛すら、ああそうですか、という受け身っぷり。でも決して、誰にも支配されてはいない。

ラスト、小えんは、こうちゃん(17歳の工員)を誘って、上高地に行きます。何を思ったか、彼女はそこでこうちゃんだけをバスに乗せ、ついでにお父さん(旦那、つまり山村聰)からもらった時計もくれてやり、自分は人っ子一人いない待合室に残る。ただ、座っている。そこで「終」。

 この、絶望も希望もない、まさに「空虚」としか言いようがない若尾文子の姿は、ほんと、「やられた」って感じでした。最後まで、徹底してメロドラマ的要素が排されていたのは、見事というほかはないです。