高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

エリア・カザン『波止場』(1954)②

①のつづき。

これは今後の私自身の研究課題のひとつでもあるわけですけど、キリスト教世界において、やはり聖母マリアと、マグダラのマリアは、女性像の究極というか、原型なのだろうな、ということ。『波止場』も、それにのっとっているということを嫌でも感じざるを得ない(それにしても、日本の女性像の原型って何? …ア、アマテラス?)

話を戻しますと、テリーは、イディとの出会いによって、マフィアに立ち向かおうとする。兄のチャーリーはこうなっては兄弟もろとも殺されるとわかっているので、必死に弟を説得します。しかし、テリーはそれを拒絶。兄弟は決別します(この直後、チャーリーは惨殺されてしまうので、文字通り永遠の別れとなる)。

その足でテリーが向かったのはイディの家。もう、ここが本当に、個人的には(しつこい)、映画史上でも屈指の美しいラブシーンだと思います。マーロン・ブランドの甘えたような悲しい顔が何とも言えん。

実はテリー、友人だったイディの兄の殺害に関与している。だからイディはテリーを愛しているものの、拒み、家のなかに入れない。しかしテリーはドアを乱暴に破壊し、抵抗するイディを強引に抱きすくめ、キスをする。イディは、そのときのテリーの愛情と悲しみと、ようはすべてを瞬時に理解し、受け入れ、自分から求める。テリーの安心したような顔。もうね、これがせつなくてせつなくてね(涙)。

同様のものを、私は過去にも何度か見たり読んだりしている。いちばん近いのは、中上健次の『枯木灘』における主人公・秋幸と恋人の紀子のそれ。血の宿命に苦しむ秋幸は、娼婦である異母妹のさと子と近親相姦の関係を結んだ過去を、紀子に告白した後、やっぱりテリーみたいな行動に出る。このときの紀子も、やっぱりイディみたいだった。

エヴァ・マリー・セイントという女優さんは、これが映画第一作目なんだよな。すげえなあ。後年のヒッチコックの『北北西に進路を取れ』(1959)のときも思ったけどさ、この人、ラブシーン巧いよなあ。切実さ、感情の迸り、どれをとっても感動的ですらある。

そして、マーロン・ブランドだよね、やっぱり。少々クサいところはあるが、こんなに粗野で教養もない役柄なのに、繊細さや優しさ、純粋な精神性すら感じさせる演技って、そうそうお目にかかれるもんじゃないです。

でも、やっぱり、宗教なんだよなー。どうしても、宗教に行き着く。人間の根源を照らすような。若干飛躍しますけれども、エロティシズムも、結局、そこから生まれるのではなかろうか。たんに出会った、くっついた、とかじゃなく、生命の存在に関わるような切実さみたいなものを感じたとき、私は、いちばん、心を打たれる。