高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

渋谷実『悪女の季節』(1958)

最初に断っておくが、渋谷実監督で、我が山田五十鈴様と岡田茉莉子嬢が出演しているんだから、この映画、面白くないわけがない。渋谷実の喜劇というのは、ベタついていないので、私はとても好きである。

ブラックコメディとは、当たり前ですが、一般的には笑ってはいけないものを笑うことで、その最たるものが「死」。老人(東野英治郎)を殺して莫大な財産を得ようとする元芸者であり内縁の妻(五十鈴様)、その連れ子である娘(茉利子嬢)を中心に、父の仇を討とうとやはり老人を狙う青年(杉浦直樹)、殺し屋(片山明彦)、妻の芸者時代の馴染み客(伊藤雄之助)なんかが絡んでくる。まあ、あらすじはこんな感じ。

これは怪作である。少なくとも、スポンサーのうるさい地上波での放映は無理なレベル。皆が東野英治郎を殺そうと奮闘するが、ことごとく失敗する。おまけに最後、主要な登場人物はことごとく死に、誰も財産を手に入れることができない。しかし、こうした筋だけではその面白さが伝わらないのが残念である。黒いユーモアは、細部にこそしっかり輝いていたりするからだ。

前半、山田五十鈴の母親は、娘の岡田茉莉子に食われっぱなしだが、後半、ついに自らライフルを持つようになってからは圧倒される。茉莉子嬢は、こういうアプレを演じたら天下一品。一見、お人よしっぽい山田五十鈴との関係は、『流れる』を思い起こさせる。しかし、この映画の場合、最後にしたたかさを見せるのはベルさんである。

以下、笑ったシーンなど。

山田五十鈴は老人を殺すために、馴染み客だった伊藤雄之助(神!)を仲間に引き入れ、さらには殺し屋の秋ちゃん(片山明彦がいい味を出している)を雇う。この秋ちゃん、殺しの「参考書」を持っているのですが、表紙には「殺し」という下手くそな文字と漫画チックなイラスト。そしてその中身は新聞記事の切り抜きなど、何ともお粗末な代物なのであった。

〇老人の邸宅は火葬場のそばにある(もちろん、土地が安いからである)。訪問して来た伊藤雄之助が窓を開けようとする。山田五十鈴は一度は止めるも、「友引だからいいわ」と許可する。つまり、ふだんは灰が入って来るのである。友引なら火葬場は休み。なお、この家のセット、成金趣味がよく出ている。

〇殺し屋の秋ちゃんはあっさり東野英治郎に買収される。父の仇を討とうとする杉浦直樹も、東野にうまく丸め込まれる。積年の恨みが晴らせるというまさにそのとき、東野に些細なことを質問され、この青年、わざわざ殺しを中止し、軽井沢図書館まで調べに行ってしまうのである。概して、この映画、東野以外の男はことごとくバカである。

〇その王様が伊藤雄之助! どうしてこの人は、何をやっても面白いのか。嘘泣きをする山田五十鈴の声のあまりの大きさにビビり、いったん部屋を出て、外まで聞こえるかを確認し、また戻って「大きいよ」とたしなめるシーン。右目が悪い設定だが、左目は閉じて右目はあけて寝ている。山田五十鈴からは、「あんた寝てんの起きてんの」というツッコミが。

〇怪優ばかりよくもまあ集めたという映画。家事を担うばあやは三好栄子であり、岡田茉莉子の友人役のヌードダンサーは岸田今日子。なお、三好栄子と猫のエピソードに関しては、現代ではとてもとても、ここでは書けません。

アグファの色はいいなあ(しみじみ)。

〇ラストのスピード感がよい。人が次々と死んでいくことで展開を速くする。そりゃあもうバタバタと。秋ちゃん(爆死) → 杉浦直樹(その巻き添え) → 東野(ライフルで撃たれる) → 伊藤雄之助(岡田茉利子に突き落とされる) → 山田・岡田(もみ合ううちに二人とも浅間山の火口に転落)。

〇音楽は黛敏郎で、この人の音楽は、渋谷実の映画に合っている。泥臭くなく、かわいていて、つまり、オシャレなのである。

最後までどうなるかわからないところがめちゃくちゃ面白かった。それにしても、タブーに挑戦し、この世に笑えないものなどない、となれば、私もいささかマシな人間になるのだが、残念なことに、まだその境地にまで達していない。道は遠い。