高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ジャック・フェデー『ミモザ館』(1935)

ジャック・フェデーにしろ、ジュリアン・デュヴィヴィエにしろ、ルネ・クレールにしろ、戦前のフランス映画というのはもう言うことなしに素晴らしい。何を観ても、阿呆のように、すげー、としか思わぬ。

で、フェデーの『ミモザ館』である。大好きなフランソワーズ・ロゼエ(ロゼーだとどうも感じが出ない)の主演ですから、ハズれなわけがない。

  下宿屋ミモザ館の女主人、つまりロゼエは、賭場を経営する夫と2人で、犯罪者の子供であるピエールを引き取って育てている。これが1924年

ピエール12歳の誕生日、父親が出所し、ピエールを連れて行ってしまう。この直前に、学校でルーレットの賭けをし、カネを儲けているピエールのシーンがある。金を儲けることより、そのスリルに取り憑かれているピエール。将来がさりげなく暗示される。

  10年後、1934年。父と死別したピエールは、絵に描いたようなダメ男になっている。たびたび金の無心をし、ヤクザの情婦ネリーと通じて半殺しの目にあったり、詐欺まがいの仕事をしている。

「おばさん」ことロゼエは、何かと世話を焼く。お定まりの母性愛と異性愛の相剋、これを演じるロゼエはさすがに巧い。

というか、あまり美人ではない(日本人の感覚だけど)からこそ、そして若くないからこそ、その侘しさ、哀しさが際立つ。 ピエールがミモザ館に帰って来るという日、朝から美容院へ行き、マニキュアなんかをしてしまうところは、直視するのがつらかった。

つまり、それだけ私も年を取ったのである。

  それにしても、ジャック・フェデーってば、ロゼエの夫でしょ?よくこんな哀しい、侘しい役をやらせたよなー。とにかくすごい女優さんだよ。ちょっとした表情とか、もう、セリフなしでもわかるもんね。さすがコメディ・フランセーズ

  ピエールはネリーをミモザ館に呼び寄せる。ネリーとロゼエは当然反発しあう。ここから、映画はいっそうドラマチックに進む。

ネリーは次第に浮気や浪費を重ね、彼女を繋ぎとめたいピエールは、ミモザ館を出て、二人で家を借りて住むことにする。それを聞いたロゼエは、ヤクザのボスにネリーの居所を知らせる。わー陰険。

その頃ピエールは、まとまった金を手に入れるため、仕事の売上金を持ってカジノへ。

ミモザ館に戻ったピエールは、全てを失っている。

「あなたのため」というロゼエ。このあたりのウザさはもはや王道。別人のように冷たい顔をするピエール。ロゼエは、ピエールのためにカジノへ行き、大儲けをする。 ミモザ館に戻ると、ピエールは自殺を図っていた。

  さすが「小説」を生んだ国、フランス。19世紀リアリズムのような、救いようのない世界。筋立ても心理も大変わかりやすい。  

 で、ひとつ、非常に感心した、映画ならでは、という表現。

キスシーンの処理である。

 ネリーと情夫、あるいはネリーとピエールがキスしようとすると、画面がフェードアウトする。はじめは、あれ、検閲?と思ったが、いやいやフランスはそんな国じゃない。

ラスト、死にかけているピエールは、手を握るロゼエをネリーだと錯覚する。キスしてくれというピエールに、ロゼエは唇を重ねる。ここは、しっかり映される。

つまり、このキスシーンを際立たせるために、それまでの一切のキスシーンをフェードアウトにしているのだ。

これは、映画にしかできない。こういう、「それでしか表現できない」ものに出会うと、私はうれしさに身悶えしてしまうのである。