高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ジョセフ・フォン・スタンバーグ『嘆きの天使』(1930)

謹厳実直な教師が踊子の虜となり、人生を破滅させる。言わずと知れた、マレーネ・ディートリッヒ出世作

いやはや、ぶったまけるようなすごい映画だった。恐ろしく残酷な悲喜劇。ラート教授役のエミール・ヤニングスの怪演。冒頭からやられました。謹厳実直なラートの朝。おそらく唯一の楽しみ?である、飼っている小鳥を呼びます。しかし小鳥は籠の中で死んでいる。しかもすでに硬直している。女中はそれをつまみ、「もう歌いませんね」と、無感動にストーブの火の中へ投げ込む。もうこれだけで、教授の未来は暗示されるんだねー。

生徒を取り締まるために、ナイトクラブ(これはもはや死語)〈嘆きの天使〉へ行くラート。そこでローラ(ディートリッヒ)と出会う。うーん、ファム・ファタール。そのローラ嬢に、「あなたハンサムね」と言われ、にやけるラート。ヤニングスの演技が見事。本当に、「相好が崩れる」といった感じである。めでたくギムナジウム(この響き、妙な郷愁を誘うなあ)をクビになったラートは、芸人一座にくっついてまわることになる。ローラとの結婚式で浮かれて、雄鶏の鳴き声を真似するラートは、もう痛々しくて滑稽で直視できない。

ディートリッヒの歌声は、低音がよい。そして、意外なことにあまり色気を感じない。とくに舞台の衣装は、肩ががっちりしているのがはっきりわかってしまい、日本人からするとややたくましすぎる。

しかしながら、なぜか、時折見せる、少年のような雰囲気が、ドキッとさせる(何だか倒錯してますね。私は女。ディートリッヒも女。その、少年っぽい中性的な雰囲気にセクシーさを感じるって、どうなってんの?ぐるっと360℃まわって結局ナンセンスな感じが)。特に、舞台から降りた昼間の、化粧が薄めでスーツ(だがノーブラ)を着ている、この時が一番きれいだと思いました。ディートリッヒと言えば、ナチに反発しアメリカに移住した反骨の人だけれど、実際はサバサバした人だったと思う。それが見え隠れするとき、何とも言えない魅力的な風情を見せる。

だんだんと荒んでいくラート。5年が過ぎる。巡業に次ぐ巡業。もうね、見た目の崩れ方がすごい。そして、座長は、かつてラートが教授をしていた町での興行を企てる。ああもうこう打っているだけでやりきれなくなってくる。

このあたりから、私は、息を詰めて見ていた。

当然のごとく、ローラには新しい男ができます。嫌がるラートは無理矢理に道化師の格好をさせられて、舞台に上がる。雄鶏の真似をさせられる。禿げた頭に、奇術師の座長から卵をぶつけられ、鳴かないと殺すぞと怒鳴られる。舞台の裏では、ローラが新しい恋人とキス。ついに発狂するラート。鶏の鳴き声をあげながら、ローラにつかみかかる。クラブ内は騒然となる。 もう、恐ろしくて、ここまでやるかと思った。これが映画のクライマックスである。

ところで、映画というか物語というもののほとんどは、こういう、緊張を強いるクライマックスのままで終わるってことは、ほとんどないんですね。これは、人間の呼吸というか、生理的なものに関係している感じがします。本物の終息に向かって、物語は、静かに、ゆっくりと進む(とここまで書いて、たとえば『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が何とも苦しい映画なのは、バッドエンドだからだけではないのだということに気づく)。『嘆きの天使』の場合も、静かな、でもとても残酷なエンディングが用意されていました。

廃人のようになったラートに、座長が声をかける。「やりすぎたよ、悪かった、教養のあるあんたに」。一人になったラートは、ローラの幻覚?を見る。そして、やにわに、フロックコートを着て(このよれよれっぷりが、冒頭の姿とすごい落差)、雪の、夜の町をよたよたと歩いていく。彼の向かった先は、かつて自分が働いていたギムナジウム。ラートは、そこの教卓に突っ伏し、机をがっちりつかんだ死体となって発見される。見つけた男が誰かを呼びに行く。暗い教室、ラートの死体にスポットライトが当たり、カメラが引いていく。生徒の机、教室の全景、そこで「ENDE」。

久しぶりに、すごいものを見た。参りました。やっぱり、ヨーロッパの映画は違う。さすが、リアリズムを生んだ土地。残酷さが違う。