高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

エリア・カザン『欲望という名の電車』(1951)②

ヴィヴィアン・リー演じるブランチ・デュボアは、もちろん、まぎれもなく「女」だった。獣としての女が、わずかばかりの知性や教養を身につけて、かろうじて人間の面目を保っている、そんな存在だった。それはブランドのスタンリーも変わらない。ヴィヴィアン・リーは、この役を演じきっていたし、マーロン・ブランドも、「男」の原型といった感じの凄絶さがあった。

映画を観た後に、私はテネシー・ウィリアムズの原作を読んだ。

アメリカ南部、ニュー・オーリンズの空気が、冒頭から伝わってくる。行ったことがないはずなのに、そのト書きだけで一気に舞台空間が立ち上がる。ブランチの妹のステラは夫のスタンリーを愛しているが、これがすがすがしいほど、肉体的な、つまり獣じみた結びつきなのである。そのおかげか、登場人物も同じように、身体を持って活字から立ち上がってくるのです。観念的な愛だと、それがうすっぺらなものほど、所詮活字のままである。

スタンリーは、「粗野」な人間ではあっても「下品」ではない。これを書いていて思い出したのが、中上健次の「路地」の世界だった。あそこに生きる男と女の愛に似ている。それに対してブランチは、「粗野」ではなく、「下品」な人間である。そのからくりが面白い。

筋はいちいち追わないが、クライマックスは、スタンリーがブランチを犯す場面。まったく、こうならざるを得ないという、まさに劇的な必然。悲劇は、その頂点(結末)に向かって一瀉千里に突き進む。そういえば、生前、三島由紀夫テネシー・ウィリアムズと会っていたが、納得。三島の戯曲も、とにかくこの「必然」がすばらしいですもの。精神に異常を来したブランチの最後のセリフは、読む者、そして観る者の背筋をぞっとさせずにはおかない。

「(医者の腕にしっかりすがって)どなたかは存じませんが――私はいつも見ず知らずのかたのご親切にすがって生きてきましたの。」

でも、ブランチも、スタンリーも、普遍的な人間のひとつの型。だから、この嫌悪感は、異質なものに対してというより、自分のなかにもある生命に対するもの。まるで鏡のような戯曲。いや、優れたものは、どれも読む者を映し出すのだ。優れていればいるほど、くっきり、はっきり。