高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ロバート・ゼメキス『フォレスト・ガンプ』(1994)

余計な映画評なんかを抜きにして、理屈抜きに好きな映画のひとつ。いったい私はこの映画を何度観たであろうか。1994年のアメリカ映画で、その年のアカデミー賞を獲得した。主演のトム・ハンクスが一世一代の名演技。もっとも、アカデミー賞は、長らく、精神を病んでいる主人公や、どこか障害があったりする設定に甘いっていうのはあるけど、それにしてもアメリカ映画の良さが詰まった映画ではある。

   何度目に観たときだったか、ふと、ガンプはキリストなのだと気づく。主人公のフォレスト・ガンプは、IQは足りないかもしれないけれど、純粋無垢の結晶みたいな人間である。彼は人の善性を信じて疑わないし、だからこそ、彼はたくさんの出会いがあり(それにしても「一期一会」の副題はマジいらない。ほんと、日本の映画配給社の堕落ぶりには怒りを覚える。しかし、ただカタカナに引き写されてもなあ。『ペペ・ル・モコ』を『望郷』、『7月14日』を『巴里祭』にした戦前のセンスはもう二度と戻らない。嗚呼)、幸運がある。戦後のアメリカの激動の歴史をまともに生きることになるが、彼はそんなことはよくわかっていないし、ただ、生きるように生きただけである。

   そのアメリカの歴史の「負」の部分を担うのは、ヒロインであるジェニーだ。さしずめマグダラのマリアといったところか。幼少期より父親から性的虐待を受け、ヒッピー文化にのめり込み、そこでドラッグや不特定多数の異性との関係を持ち、最後はエイズ(だろう)によって死ぬ。ジェニーが幸福だったのは、ガンプと結婚し、ガンプとの間に生まれた子どもと三人で余生を過ごした穏やかな時間だけだったはずで、すなわち、最後、ガンプというキリストを具現化したような存在に救われるのである。神は近くにいたわけである。ただ、気づかなかっただけで。

  同じような存在が、ベトナム戦争で名誉ある戦死を望みながら、下半身を失った、この上なく「みじめな」生き方を余儀なくされることになるダン小隊長である。彼は神を信じなくなるが、ガンプとの交流によって神と和解する。

  この助演二人と、母親役のサリー・フィールドの演技が素晴らしい。この母親は、古今東西万国共通の理想の母親みたいなもんで、どんなときでも息子を信じ、最大限の愛情を注ぐ。そう、聖母マリアだ。

   ロシアではドストエフスキーがそうだったけど、キリスト教文化圏の、芸術家の究極の目指すところは、神、すなわちキリストを描くことなのだろうと思う。そして、『白痴』『カラマーゾフの兄弟』がそうであるように、聖性を持つ者はしばしば愚鈍な形でしか描きようがないのだ、というのも、私には大きな発見であった。

   この映画は、ファースト・シーンとラスト・シーンが同じである。前者では羽根がフォレスト・ガンプのもとに舞い降り、後者では羽根が年高く舞い上がる。何を象徴しているのか、本気で考えたわけではないけれど、最後、ガンプは「人間」になったということか。その伏線として、ジェニーの墓で泣く場面がある。母親が死んでも、彼は泣かなかった。ゆえに、人間らしい感情が噴き出す、唯一の場面がこれ。しかしその代わりに、ガンプはこの先、奇跡をもたらす聖なる存在ではなく、ごく普通の父親として生きることになるはずである。

   ガンプが、自分の子と対面し、ジェニーに「頭は……?」と恐る恐る尋ねるシーンは、屈指の名場面。バカだと言われ続けてきたことが、実はものすごく彼を傷つけていたことが、この一言で鮮やかになる。

  と、何と言っても、この映画は音楽が素晴らしいんですね。「フォレスト・ガンプのテーマ」というメインテーマもですが、プレスリーの「ハウンド・ドッグ」に始まり、その時代時代を反映した流行歌が満載。サウンドトラックは今でも愛聴しています。

  で、ドラマティックな場面には、メインテーマが使われます。まだ子どものころのガンプが、いじめっ子に追いかけられ、石をぶつけられるシーン。彼は背骨の矯正のため、ギプスをしています。うまく走ることができない。でも必死で走る。ここから映像はスローモーションになる。ギプスが外れていく。ガンプは自由になり、すごいスピードでまっすぐに駆けて(翔けて)いく。 映画でしか表現できない見事な場面なのだが、私はここで、毎度バカみたいに泣いてしまうのである。