高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

小津安二郎『お茶漬の味』(1952)

『晩春』(1949)、『麦秋』(1951)、『東京物語』(1953)という小津安二郎の代表作の谷間に挟まれたこの映画と『宗方姉妹』(1950)はどうにも気の毒なところがあるのですが、私は『お茶漬の味』、けっこう好きです。なぜならば、わが淡島千景嬢が出演しているから。主役ではないですけど、もうね、彼女が出演していたら何だっていいんですよ。

話は、朴訥な会社員である佐竹茂吉(佐分利信)と、上流階級出身の妻・妙子(木暮実千代)のすれ違いを軸に、姪の節子(津島恵子)のお見合い話と岡田(鶴田浩二)との恋愛(というほどではないが)が絡む感じ。

この映画の中心になっているのは、もちろん夫婦の関係そのものなのですが、同時に、世代の違いによる価値観のズレなんですよね。まあ、考えてみりゃ、小津の戦後の作品は、必ずと言っていいほど世代間の断絶に焦点を当てているわけですが。もっとも、突き詰めれば、すべての人と人との間にある越えられない溝がテーマでもあるんだけれど……。

これは、やはり「戦後」を抜きにしては語れないと思う。個人的には、『お茶漬の味』からいちばん感じたのは、なぜか、戦争に負けた国・日本だった。

 いや、もちろん、『東京物語』はじめ、戦後の作品にはどれも、あるにはあるんですよ。しかしながら、とくに上記三作は、如何せん原節子の存在が大きすぎて、どうしてもそちらへ引っ張られてしまう(それがひとつの狙いだったんだろうけども)。なお、『お茶漬の味』という映画がいまいち弱いのは、やっぱり、「聖」と「俗」という古い分類をするならば、原節子的な「聖」がないこと、としか言いようがない。

話を「戦後」に戻します。私がなぜこれを感じたかというと、主人公の佐分利信を見て、「どうして戦後の小津映画の男どもはこうもモッタリしているのだろう?」と思ったからなのです。中年だから、というわけではなく、どうにも覇気がない。で、これって戦争に負けたからだよなー、と。

印象的だったのは、木暮実千代の留守中、さびしく食事をする佐分利信が女中(あえて使うよ、この言葉)に、君は汁かけ飯は食わないのか、と問う場面。女中は、奥様がお嫌いですから、と答える。あ、すごい、と思いました。紛れもなく、「家」の中心が女に移行している。妻が上流階級の出身だから、というわけではない。

それにしても、佐分利信のモッタリぶりが格別によい。あきらめたようなさびしい笑顔。そう、小津映画というと、登場人物のこういった笑顔が真っ先に浮かぶ。なお、この夫婦関係、結構リアルです。とにかく旦那は話を聞いちゃいね—。妻は一方的にまくしたてている。

さて、妻の妙子。夫との生活の退屈さから友達と遊びまくる(その女友達の一人が淡島千景)。いやもうね、この、女同士の会話がとてもいいのですが、内容がひどすぎてひどすぎて(笑) 私は殿方に同情してしまいました。女だけで温泉に繰り出すも、池の鯉が佐分利信に似ているからということで、みんなで笑いながら「鈍感さーん」(彼につけた仇名)とか呼んじゃってますしね。でも、女性4人が浴衣姿で欄干から池を覗くこのシーンは美しい。

パチンコ屋の主人役で笠智衆が出ています。正直、こういう役の方がいいんじゃないの? と思ってしまいました。パチンコをやりながら、パチンコなるものを批判するという、わけのわからない感じが妙にハマっていました。

さて、蛇足ながらこの作品における淡島千景。うわ、登場シーンからくわえタバコだよカッコいい! モダンな洋装が似合う。そりゃ宝塚だもんなー。しかし、温泉へ向かう列車が、うーん、他の女優と同級生には見えない。ちょっと若すぎ。温泉のシーンで、みんなが女学校時代を懐かしがって「すみれの花咲く頃」を歌うシーンを入れた小津安二郎のサービス精神に感謝! それにしても、まあ顔の小さいこと小さいこと。やっぱり戦後の女優さんだなあ。

そして、何より、お節介まるだしで説教する女友達としてのリアリティ。『麦秋』もそうでしたが、総じて、この人の早口、伝法な口調でのお説教や啖呵は、日本の映画の財産だと、わたくしは本気で思っております。