高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ルネ・クレマン『太陽がいっぱい』(1960)

誤解を恐れずに言うと、これはアラン・ドロンという俳優が持つある種の「卑しさ」がなければ成立しなかった作品です。いや、私、褒めてるんですよ。皆が皆、気高い雰囲気を漂わせているなんてつまらない、第一、人間世界がそんなものであれば、映画はもちろん文学だってこの世に必要ありませんからね。

ま、彼と同時代に人気を二分したジャン=ポール・ベルモンドではこうはいかない。この方、顔はまあアレだとして、どうやっても隠すことのできない知性、育ちの良さみたいなもんがある。アラン・ドロンは美形だけど成り上がり者の顔(くどいですが褒めてます)。

あまりにも有名なこの作品、いまさら筋を説明する必要もないかと思うのですが、場所はイタリア。アラン・ドロン演じる貧しい青年・トムは、アメリカから来た大富豪の息子フィリップ(モーリス・ロネ)と行動をともにしている。フィリップをアメリカに連れ戻すよう父親から依頼を受けて来たトムでありますが、フィリップに帰国の意思はなく、トムを見下し、使用人のようにこき使い、虐待する。

トムはフィリップと彼の婚約者マルジュ(マリー・ラフォレ)とヨットで旅に出ますが、トムは二人に諍いを起こさせてマルジュだけを下船させるように仕向けフィリップを殺害、財産を奪うことに。

このトムとフィリップの関係なんですが、もうね、淀川長治先生の有名な説、つまり、トムとフィリップは同性愛の関係で云々、の印象が強すぎて、何回見てもそれにしか見えなくなっちゃうんですね。何とも言えない二人の距離感。これはなかんずく、モーリス・ロネの演技によるところが大きい。「俺を殺そうとしているのか?」と聞くときの哀願するような眼つきとか。

女であるマルジュは、当然、それを察しているわけです。いや、当たり前だ、誰が好きこのんで、男友達(というか手下?)を婚約者と一緒の狭いヨットなんかに乗せるかって話ですよ。

というわけで、フィリップは意外とあっさり殺され、シートにくるまれた状態で海に投げ込まれ、映画の残り約三分の二は彼になりすましたトムの隠蔽工作と逃亡が描かれるのですが、これ、正解。どういうわけで殺人に至ったのか、よりも、こちらの方が圧倒的に面白い。

ちょっと飛びますが、ドストエフスキーの『罪と罰』も、物語の開始早々に人を殺し、あとは主人公のラスコーリニコフがえんえんと煩悶し続けるわけですし。しかし、もちろん、『太陽がいっぱい』と『罪と罰』とは時代も国も違う。トムには罪悪感など微塵もありませんし、どちらかというとカミュの『異邦人』の主人公・ムルソーの方が連想しやすい。いや、これもまた全然違うんだけどさ、なんとなくどちらも「太陽のせい」って感じがするんだよねー。

さて、私がこの映画でいちばん言いたいのは、結局、アラン・ドロン演じるトムの「卑しさ」と「哀しさ」なのであります。それについて象徴的なシーンが二つ。

トムとフィリップは、年齢や背格好もほとんど同じという設定。だからこそトムはフィリップを憎んだし、彼になりすますことも思いついたわけでありますが、冒頭近くで、トムがこっそりフィリップの衣服を身につけて、彼の怒りを買う場面があるんですよ。ええ、その時は何も感じなかったんです。ところが、トムがフィリップを殺し、ちょっと変な言い方ですが「本格的」になりすます最初のシーン、私はここで思わず息をのんだ。

この時、トムが着ているフィリップのジャケットが、悲しくなるほど彼の身についていないんだ。つまり、これは、「育ち」の違いなんだよね。たぶん、微妙にサイズが合わないものを着せているんでしょうが、これぞ映画、何とも象徴的でありました。

もう一つは、フィリップの行方不明を不審に思った友人のフレディをトムが殺す場面。ここでトムは、死体を部屋に転がしたまんま、グリルから鶏の丸焼きを出し、その腿の部分をむしり取ってかぶりつきます。いやー、すごいね。この男がこれまでどんなふうに生きてきたのか、一目でわかる。生きるためには何でもするってことだ。

 サインを真似る練習をしたり、パスポートを偽造したりする有名なシーンより、これらの方がよっぽどショックでしたよ、私は。

それにしてもこの映画のすごいところは、そんなトムに対して、いつのまにか観客が「どうかトム、逃げて!」という気持ちにさせられてしまうことですな。それは、トムが映画のなかでフィリップから受けた仕打ちのせいなのか。あるいは、直接は描かれていないけれど容易に想像できる、これまでに辛酸をなめ尽くしてきたようなトムの造型の仕方にあるのか。はたまた、アラン・ドロンのキャラクターなのか。たぶん、どれも当てはまるでしょう。

役者がそういう役に出会うのは一生のうちで一本あるかないかだと思いますし、またそれが成功するかどうかはまた別問題であります。しかしアラン・ドロンは見事にやり遂げました。そのような意味で、『太陽がいっぱい』はまことに幸福な映画だと言えましょう。ニーノ・ロータの音楽はもちろん、ショッキングなラストシーンも含め、すべてが相乗効果となって映画の出来に貢献している、という感じがします。