高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

溝口健二『浪華悲歌』(1936)

私はこれをDVDで観たのですが、特典映像(新藤兼人の解説)で、これを撮ったときの溝口が38歳だったことを知り、まず軽くショックを受けました。自分の38歳って、何ごとかを成し得ていたでしょうか(主演の山田五十鈴が当時19歳であったことには今さら触れません)。

ストーリーとしては、主人公のアヤ子(山田五十鈴)が、家族のために勤め先の薬問屋の社長の愛人(妾の方がふさわしい気が)になったり、その他もろもろの男どもを手玉に取って金を巻き上げていく、まあ最後は家族にも見捨てられるんですけど、基本的に『祇園の姉妹』と根は同じだし、山田五十鈴の役柄も根は同じ。しかしこういう役を19歳でできるのはおそらく彼女だけだろう。とにかく凄味が違います。

しかしながら、ストーリーよりもまず、とにもかくにも映像美。ワンカット、ワンカットが、永遠に生命に刻み付けたいような美しさ。モノクロをフルに活用している、その階調がすごい。モノクロを知り尽くしたからこその映像って感じがする。このとき、カメラマンはまだ宮川一夫じゃないから、やっぱり溝口の持っている得難い才能なんだと思います。なんなんだこの美しさは、え? 光と影の特徴をこれでもかと活かしきっている。まず冒頭の夜景、ネオンからして美しい。それに続いて、アヤ子の旦那になる薬問屋の自宅、俯瞰のカットの奥行きのバランスが快感を覚える絶妙さ。小村雪岱の絵を思わせる。

音声の処理もきわめて映画的。これで71分なんだからね!いやになっちゃうよ。それなのに重厚感があるのは、ひとえに映像美の積み重ね、俳優の演技、シナリオの構成の確かさ。  

梅村蓉子はほんとにいい女優だ。確かこの人は関西生まれではない(調べたら東京だった)はずなのに、こんなに関西人らしい女優さんも珍しい。今回の、薬問屋の奥様の有閑ぶりは、そう、あれです、谷崎の『細雪』を思わせる。時代的にもちょうど重なる。婿の旦那は海苔に卵という和食なのに、奥様ってば、悠々と朝寝坊なさって、パンやコーヒーを召し上がっていらっしゃるんだから。これが夫婦の溝を端的に表している。あ、どうでもいいですが、この問屋のお抱えの医者が、あの「デブ君」(ロスコ―・アーバックル)みたいなのには笑いました。

続く、薬問屋の職場内。電話交換手のアヤ子は、恋人にそこから電話をかける。交換室の手前のアヤ子の向こうに、ガラス越しの遠景に、男がいる。スマホじゃどうにもならないなこれ。そういったところも美しいのだ。というか私好み?いかにも作り物、でもそれを極めると、逆にリアルになるんだよなー。

一番美しいと思ったのは、貧しいアヤ子の自宅です。障子の破れや穴なんかに、よく、花模様に切った障子紙を重ねて貼る、昔はよく見かけましたが、それがしてある。その障子の白と、つぎあて?の部分のグレーのコントラストが絶妙。室内の光を通して外から撮っている感じだから、鮮やかなことこの上ない。

アヤ子は恋人と美人局みたいなことをやっていたため、警察に連行される。この男は、アヤ子が自分は妾だったと打ち明けたときから怖気づいており、隣の取調室であっさりアヤ子を裏切る。溝口映画らしい情けない男、ここにも登場。その時の山田五十鈴の横顔が、この映画のクライマックス。絶望と怒り。このシーンは、それまでの豊かな階調ではなく、白と黒のコントラストをはっきりさせている。その異様なまでに浮かび上がった白い顔が強く印象に残るようになっている。

この映画のすごいところは、「悲喜劇」なんですね。笑えるシーンもふんだんにある。アヤ子のアパートで薬屋の主人が発熱した。で、電話を受けた医者が本宅に行ってしまう。お約束なんだけど笑える。奥様はアパートに乗り込み、当然修羅場と化す。『祇園の姉妹』もそうですが、関西の男のどこか間の抜けた感じ、ずるさ、せこさがよく描けている。はい、同じ俳優ですねこれ。ほーら、出て来ただけで花マルの進藤英太郎だ。

薬屋の主人と別れたアヤ子は、その取引先のおっさんに近づく。とある料亭でおっさんはアヤ子に迫る。その瞬間、カメラはぐっと遠景に引き、建物全体をとらえる。開いた窓、部屋の中の様子(男とアヤ子がもみ合う)。音声はすべてカット。これは時代を考えたら検閲なんかもあるし、どぎつくなってはいけない場面ですが、そういう時代だからこそよかったんでしょうね。いかにも映画的。そういや、この男が薬屋の社長室でアヤ子に言い寄るシーンも、音声がカットされていた。だから観客は想像するしかない。何を言われているのかと。

とまあ、これらを小説にしたら、いかにも説明的になってしまう。そうだ、説明的な部分を削りに削った映画って感じなんだ。だからこそ、短いのに、見ていて結構疲れるんです。というか力がいります。ワンカットワンカットが「象徴」なんで、重みが違うのです。やり過ごすシーンなぞ、一瞬もありませんのです。