高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

マルセル・カルネ『悪魔が夜来る』(1942)

フランス語というものは、やっぱり話すためにある言語だなあとつくづく思う。この映画におけるジャック・プレヴェールの脚本、台詞が美しいことこの上ない。演劇の台詞(古典)というものをひたすら堪能する。

しかも助監督はミケランジェロ・アントニオーニマルセル・カルネはジャック・フェデーの助監督だったし、いやあ、すごいよなあ、このあたり。こんな映画、よくもまあナチス占領下で作ったと思う。それを知った上で見ると、まったくレジスタンスそのものという感じがします。ま、すでに言われていることではありますが。

時は中世。吟遊詩人に化けた悪魔の使いのジルとドミニクがとある城へと入っていく。ここではアンヌ姫と騎士ルノーの婚約披露の宴が催されており、この悪魔の手先どもはそれぞれを誘惑してその幸せを壊すのが目的である。

ドミニクを演じるのはアルレッティなんですけど、もうね、何なんですかこの人の声の美しさ。ゾクゾクします。私が初めてこの人を知ったのは『天井桟敷の人々』、もう何十年も前になりますが、そのとき聴いた声の記憶が鮮やかに蘇りましたよ。

登場時には男装、時にはきらびやかなドレスを身に纏うアルレッティ、本当に、悪魔にふさわしいお方であります。ルノーだけでなくアンヌの父親も手玉に取るその色気。フランスという国の奥深さをつくづく感じました。女性の美しさの見せ方の幅が広い。

ジル(アラン・キュニー)が禁を破ってアンヌを愛してしまうのとは対照的に、最後の最後までお見事、正真正銘の「悪魔」であるドミニク、この対照性、配役はものすごく成功しています。

婚約の宴の場面、さまざまな芸人がお祝いとして芸を披露していくのですが、そこに、順番がまわってきた三人の小人が頭巾をかぶって連れて来られる。それをめくると、ぞっとするような、醜く変形した顔が現れる。アンヌは思わず顔を背ける。三人は、この後も物語の要所要所で登場しますが、こういったいわば「異形の者」の存在は、何故「物語」には不可欠なんだろうか。しかも、古くから、万国共通でね。だからね、こういうものを変に隠蔽するのは、よくないと思うよ。 人間も物語も、本質的にはおぞましいものなんだから。

さて、この映画がよく出来てるなあと思ったのは、ジルとアンヌが本気で愛し合うようになり、ドミニクとルノーとアンヌ父の三角関係が膠着状態に陥ったところで、悪魔(つまりボスだな)が絶妙なタイミングで登場すること。これを演じるのはジュール・ベリー。

道に迷った裕福そうな旅人を装って城に入りこんで来たこの悪魔、最高でした。

この人(と言ってよいのだろうか?)、もうとにかく陽気・気さく・親切。それなのに、台詞のトーン、しぐさ、表情、動き、どれをとっても奇妙に人を反発させるものを持っている。見ているだけで不快になる。彼がはしゃげばはしゃぐほど、まわりはどんどん陰鬱にならざるをえないような。あからさまに残酷だとかじゃないのよ。だからすごいと思ったのね。これが演技力ってやつなんだろうねー。

悪魔は、ジルが契約に背いて(さすがはカトリック世界)アンヌを愛したことに業を煮やしてやって来たので、彼はほどなく牢に入れられてしまいます。一方、悪魔のおぼえもめでたいドミニクは忠実に任務を遂行。ルノーとアンヌ父を決闘させます。ルノーは(めでたく)死亡、アンヌ父は年甲斐もなく身ひとつで城から去ったドミニクを追います。

いやー、うん、ぶざまだ。実に見事だ。

さて、ちょっとアンヌ姫のことを。演じるのはマリー・デア。アンヌは、もう、(この当時の)フランスそのものというか、魂なんだよね。全編を通して彼女によって繰り返される台詞、「私は誰のものでもない」「私は自由だ」。悪魔は、それこそ「悪魔のささやき」をもって、あの手この手でアンヌとジルの愛を破壊しようとするのですが、アンヌは屈しないし、ジルとの愛を信じて疑わない。

クライマックスで、アンヌは、自分を愛するのであればジルを自由にしてやる、ただしジルの記憶はすべて消すという悪魔の要求を飲むことになります。その言葉通り、自由になったジルはアンヌを忘れてしまう。しかし二人の魂は、初めてキスをした泉のそばで再びキスをするとまた結ばれることになる。そう、ちゃんと思い出したんだよ、ジルは。

こう書くと、すごく陳腐な物語に見えてしまうけれど、如何せん役者の演技がみな重厚なもんですから、はっきり言って胸を打ちます。

怒った悪魔は二人を石像に変えてしまう。しかし、その石像からは、二人の心臓の鼓動が聞こえる…という鮮やかな幕切れ。

美術も一見の価値あり。戦時下、かつ占領下でこの豪華さはないよなあ、といささかビビりながら、同じ時期、はるか海の向こうで「欲シガリマセン勝ツマデハ」とか言っていた国が、自分の生まれた国なんだよなあと、ぼんやりと思ったことでした。