高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

作家の妻② 坂口三千代『クラクラ日記』

前に別なところでも書いたのだが、大事なことだし、大好きな本なのでもう一度書く。

私が坂口安吾という作家に事実上「惚れて」しまったのは、実にこの妻である三千代さんのこの回想記によるのであった。安吾だけは、私が唯一、本気で結婚したいとまで思いつめた?作家なのである。年をとって少しだけ冷静になって考えてみると、どうやら私は、坂口三千代なる女性(の文章)に極端な感情移入をしてしまったようである。言いかえれば、自分があたかも坂口安吾なる作家の妻であるかのような錯覚に陥ってしまったということだ(危ねーなー、おい)。

何にせよ、この『クラクラ日記』の破壊力たるやすさまじかった。そして私は、今でも、三千代さんこそ最大の坂口安吾の理解者だし、この本こそ最高の坂口安吾論だと思っている。まったく、幸せな夫婦だと思う。

 「あとがき」の、「おわりにして考えてみますと、どうも彼のいい面、善行の部類はとうとう書けずじまいで、善行というのは書きにくいものだと思いました。(中略)彼にはこんな善いところがたくさんあったのに、パパゴメンナサイ」というくだりを読んだとき、私は、いやいやいやいや、いいところしか書いていないよ!と盛大にツッコミを入れた記憶がある。 確かに、一人の作家の、巨大なエネルギーの塊の、常軌を逸した日常と人生が書かれているのであるが、ここ現れているのは、どこまでいっても「坂口安吾」という愛すべきキャラクターなのだ。

一方、安吾はと言えば、太宰治が山崎富栄と心中した時、彼女を書かなかったのは書くに値しない女だったからだ、作家は惹かれたらどんな女でも書く、みたいなことを書いていたが、出会って間もなく、三千代さんをモデルにした『青鬼の褌を洗う女』を書いたのだから、その言葉は本心だったのだろう。こんな愛すべきヒロインを造型したこと、そして作家にインスピレーションを与える存在であったこと、やっぱりこの二人は幸せな夫婦だ。

そんな夫を持った三千代さんの苦労は相当のものだったはずだが、メソメソしたところは一切ない。安吾の薬物の乱用、二人で死のうとしたときのことですら、明るく爽やか、喜劇にすらなっている。それはまさしく文章の力で、このお方、相手はおろか、自分も客観視できる得がたい資質があるのだ。たとえばこんな箇所。

何をどう考えたのか、一度、自室の窓から階下へ飛び降りたいといい出した。どうしても飛び降りたいという。(中略)彼にとっては、ここから飛びおりるということに大変なイミがあるらしかったが、私は必死に彼の腰にしがみつき、ちょっと待って、ちょっと待って、ちょっとだけ待ってといって、しいちゃんを呼んだ。しいちゃんは間髪を入れず飛んで来て、私達のこのありさまを見ると、自分も彼の腰にしがみついた。(中略)「しいちゃん、それではあなたのふとんを、何枚でも多いほどいい、下に、庭にしいて来て、大至急その方がいいわ」おっこちるよりはその方がいい、早く、早く、といってせかした。そうしてふとんを二枚ほどかつぎ出し、しきつめた時、彼は飛びおりたが、ウマくふとんの上に転がり、骨も折らず、カスリ傷も負わなかった。ちゃんと立ちあがってあるき出した。上、下で見守っていた私も、しいちゃんも深いためいきをついた。

まちがいなく、このとき、三千代さんは必死だったはずなのに、なんだろう、このおかしさは。三千代さんの腹の据わり方、坂口安吾に負けず劣らず、ぶっ飛んでいる。ふつう、ふとんを敷きつめるという発想には、なかなか至らないと思うのですよ。

以前、念願だった坂口安吾の故郷である新潟に行って、妻である三千代さんの碑を見つけたとき、私は大変驚いた。と同時に、やっぱり、たんなる妻を超えた「女傑」なんだなあと、妙に納得もしたのであった。