高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ウィリアム・ワイラー『探偵物語』(1951)

この世の中において、心理学とかいったものに携わる方々のすべてを敵にまわしそうなのだけれど、私は、こと芸術作品においては、この分野はほとんど邪魔なものだと思っている(ただし、現実の人間のくらしにおいては、これによって救われた人は無数にいるわけで、それこそこの分野は二十世紀以降では最大級の発明であることはまちがいない)。ベティ・デイヴィスが主演した『痴人の愛』でも思ったけど、ワイラーのこの作品を見て、いっそうその確信を深めたのでありました。それについては追って述べます。

とにかく、何せ、あのウィリアム・ワイラーですからね、そう簡単じゃない物語だとは予測していましたが、はたしてその通り、なかなか重厚でしかも暗い。

舞台はニューヨークの警察署。しかも、ほとんどそこの刑事部屋だけ。まあ、もとは舞台の劇が原作(シドニー・キングスレー)ですから。

さまざまな理由から警察に引っ張られた者たちでここは常に慌ただしい。ちょっと頭のネジが足りない感じの万引女。女のために会社の金を使い込んだ海軍あがりの若い男。何度も刑務所に入ったことのある凶悪な強盗犯(かなり胸糞が悪い)とその仲間(かなり頭が悪そう)。そして、もぐりで堕胎を行っている疑いのある医者とその弁護士など。

主人公はカーク・ダグラス演じるジム・マクラウド刑事なんですが、この人が、主人公であるにもかかわらず、人の共感を拒絶するキャラクターなのがいちばん興味深かった。あらゆる物語は、十中八九、主人公に共感できるように作られているもんですよ。たとえ血も涙もない悪であったとしてもね。

このジム、犯罪を絶対に許さない非情な男。成績は抜群だがそのやり方は容赦ない。でも、共感を拒むのはそれが原因ではないのである。この男、母親を惨めな死に追いやったろくでなしの父親を激しく憎んでいる。ゆえに、少しの悪も許せない。つまりだ、この人、究極の標的は父親なのである。他の犯罪者はすべてその代理。でも表向きは「正義」の名のもとに彼の行為があるわけで、こうなっては、ボコられる犯罪者こそいい迷惑ってもんである。

ここに悲劇が起こる。ジムの愛する新妻・メアリー(エリノア・パーカー)が、結婚前に別の男の子どもを妊娠・死産しており、それに噛んでいるのが、ジムが追い続けているもぐりの堕胎医であるシュナイダーだったということ(なお、ジムが子どもを欲しがっていることが冒頭に描かれています。メアリーがなかなか妊娠できないのは、この過去のせいだったんだな)。

この妻を許す、許さないで葛藤するジムの姿が見もの。彼はメアリーの清潔さを愛していたわけで、それがよりにもよって…ねえ。でも、その振れ幅の大きさときたら、これDV以外の何ものでもなし。そしてそのリアリティ、最高に気分が悪かったですよ。悔恨にくれたと思ったその直後には「淫売」とか「汚い」とかいった言葉で妻を罵る。おそらく、英語だと最大級の罵詈雑言を使っているんだということは、メアリーの傷つき方を見てもわかる。

メアリーがいみじくも指摘したように、ジムという男は、自分が常に正義であって、悪いのはすべて他人なんだよね。そして彼は、自分自身が、この世で一番憎んでいる父親と同じであるということに気づく。

ハード・ボイルドものなんかにおける非情な主人公がなぜ共感を呼ぶのか。それは、彼らがどこかで善悪を相対化する存在だからです。そして、自分を含めた人間の卑小さもよく知っている。しかし、ジムはそういう存在ではありません。自分を正義と信じて疑わない人間というのは、最高に不快な人間であるということをあらためて感じましたよ。

署長(ホレイス・マクマホン)がいい味出してます。ジムの行き過ぎた捜査を不審に思い、気づかれないようにこっそりと調べ、メアリーの過去を暴いてしまうところ。この「こっそり」が、大変緊迫感があってよろしい。人一倍部下思いだからこそ、その真相を知って後悔しちゃうのね。

さてこのジム、最後は妻に去られます。そして、隙を見て警官の銃を奪って逃走しようとした強盗の弾に倒れる。なんか、自殺みたいだったよ、ここ。医師でなく牧師を呼ぶように頼んだ彼は、決して見逃そうとしなかった使い込みの男の告訴を取り下げさせ解放し、神への祈りを捧げ、仲間たちに見守られながら死ぬ。

とにかく、ジム役のカーク・ダグラスの演技が憎々しすぎて、この死に方も悔悛も、それまでの彼を帳消しにするとは到底感じられず、でもそれはこの俳優の個性でもあると思いました。ある意味すごいことです。

この当時、DVとかそういう概念はそれほど一般的ではなかったはず。でも、だからこそ、カーク・ダグラスの演技は「本質的」であって、決して「分析的」ではなかった。ゆえに迫力があった。リアリティがあった。 後味悪く、気分が悪くなるぐらいに。でも、文学とか映画はやっぱりこうでなくちゃあ、と思う。何も、事典やカルテを見たいわけじゃないのよ、こっちとしては。

それにしても、ワイラーのドラマのつくり方は、さすがに抜群の安定感でした。