高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

アンドレイ・タルコフスキー『ノスタルジア』(1983)

ごめんなさい。長いです。思い入れありまくり。

「映像の詩人」とさえ呼ばれるタルコフスキーの映画の美しさ、今さら語るまでもないが、それにしても美しい。初めて見たときは、こんなにきれいな映像を持った映画は見たことがない、と思ったもんね。恍惚というか、呆然としちゃったもんね。

極度に抑制されたセリフ。音楽もほとんどない。タイトルクレジットに使われるヴェルディの「レクイエム」と、作品中のいくつかと、あとはベートーヴェン「第九」。クラシックというのはこんなに美しかったのかと思う。しかしいちばん印象的な音は、雨音なんかに代表されるいわば自然界の音。「ああ、これほどまでに、自然には、音があったのか」と思わされます。

主人公のロシア人作家・アンドレイ(オレーグ・ヤンコフスキー)は、助手のエウジェニア(ドミツィアナ・ジョルダーノ)とともに、自殺した作曲家サスノフスキーの取材のため、イタリアを旅している。アンドレイは心臓病を患っており、余命は長くない。

物語は、それはそれはゆっくり進む。こういうものは、日本ではなかなか作れないなあと思う。ワンカット、ワンカットがかなりの長回しなのだが、そこから、何と言ったらいいのだろう、太古の昔より生き続けてきた自然とか、あるいはヨーロッパの歴史と伝統とか、そういった重みがおのずとあらわれるようになっている。

アンドレイは、名目上、取材ということで旅をしているわけだけれど、冒頭から、この人が探し求めているのは、もっと別のものなのだということが、おぼろげながらわかる。彼はソ連から亡命している。帰りたい、と願う。時折、モノクロの、生まれ育ったロシアの風景や人々の映像が夢として挟まれる。それらと、現在の彼がいるイタリアの風景との対比。

そのうち、彼が追い求めているのは、たぶん「神」なのだろうということがわかってくる。それとも、生きる道だろうか。たぶん、どちらもだ。 アンドレイは、教会に祀られている聖母像なんか見ようともしません。それよりも、「もうすぐ世界の終末が訪れる」と信じ、周囲から狂人と呼ばれる男、ドメニコ(エルランド・ヨセフソン)に関心を示します。ドメニコは「ろうそくに火を灯し、広場の温泉を渡りきることが出来たら、世界は救済される」と告げ、アンドレイはそれを実行することを約束します。

もちろん、この映画、こういった本筋の物語だけではなく、印象的なシーンというのはいくつもあります。たとえばエウジェニアの「自由が何かわからないんでしょう、どうしていいのか」といったセリフとか、彼女がアンドレイに手を出されないことに侮辱を感じて彼の元を去るとか。ちょっとしたことなのに、人間をえぐっている。

しかしそれよりも、私が強く惹かれた場面があって、それは、エウジェニアと諍いを起こしたアンドレイが鼻血を出すシーンなのだった。これ、紛れもなく生きた人間から滴り落ちた血に見えるのよね。血糊じゃなくて、ほんとに、「血」だった。映画は所詮作り物。しかし、決してまがい物ではないということを見せつけられた感じがしたなあ。

圧巻なのは、アンドレイの元にエウジェニアからの一本の電話が入るあたりから。彼女は、ドメニコがローマに来ていて、3日間、世界救済の演説を続けている、彼はあなたに、自分が言ったことを実行したかと尋ねている、と言う。

広場では人々が見守る中、ドメニコが銅像に上って演説をしている。ひとしきり世界救済を叫んだあと、彼は自らガソリンをかぶり、火をつける。火だるまになるドメニコ。ここで大音量で流されるのが「第九」。しかもそれは、「Alle Menschen werden Brüder(すべての人々は兄弟となる)」のところで途切れてしまう。

そう、これなんだ! きわめて個人的な感覚で申し訳ないのですが、昔から、私が「第九」を聴くたびにイメージする光景というのは、決してきれいなものではなく、もっと血みどろというか、どちらかというと凄惨なものだった。私はそれを誰にも言えなかった。だから、この映画のこのシーンは、自分と同じような感覚の人がいたのだという衝撃と安心、何とも言えない奇妙な感動を味わったのです。

アンドレイはドメニコの言った通り、短いろうそくの火を持って、温泉を渡り切ろうとする。一度目、二度目。火は消えてしまう。そのたびにアンドレイははじめに戻ってやり直す。映画を観る者は、いつしか、どうか火が消えませんように、と祈るような気持ちでスクリーンを見つめることになる。

このあたりから、私は泣けて泣けてしかたがなかった。ああ、生きるって、こういうことなんだ。わずかな火、――それは生命なのか、他の何か大事なものなのか――を、消さないように、最初から最後まで持って、しっかり渡り切ることなんだ。そして、ろうそくが象徴するもうひとつのもの。宗教問わず、ろうそくって、信仰の炎なんだよなあ。

ろうそくの火が消えるというのは、生命が絶えることであり、それは同時に広い意味で信仰を失うことでもあり、それは別々のものではなく、二つであって実は一つであるような、いわば「不二」のものなのだと思う。

アンドレイは、ようやく温泉を渡り切る。そして、火のついたろうそくを石に立て、そこで力尽きる。ああ、こういう映画をつくっていたら、死んじゃうよ、と思う。アンドレイがタルコフスキーの自画像だってことは容易にわかることだし、実際、この映画の完成後に彼はソ連から亡命し、そこから3年後の1986年、54歳の若さで亡くなっている。

ラストで、映像はモノクロに転化します。アンドレイと、犬と、故郷の風景。すべてを浄化するように、降りしきる雨はいつしか雪になって降り注ぐ。そして、「母の思い出に捧ぐ アンドレイ・タルコフスキー」と記された字幕。

文学でも映画でも、時には人間さえもそうなのであるが、言ってみれば、お菓子のようなものと、うまく言葉にはできないものの、どういうわけか心の奥底に深く根を張るようなものとがある。

前者はとにかく「好き」ということが第一、五感はフルに刺激され、テンションは上昇の一途を辿る。一方、後者は好悪の感情なんか軽々と超えてしまい、それを思うだけで静かに自分の生命を見つめざるを得なくなるような、そんな感じのものである。……やっぱりうまく書けないな。

アンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』は、私にとって、後者の典型的な例です。