高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

今井正『にごりえ』(1953)

これは、「十三夜」(主演:丹阿弥谷津子)、「大つごもり」(同、久我美子)、そして「にごりえ」(同、淡島千景)の三話オムニバス形式の映画で、公開当時の評価も高く、私も初めて見た時(まだビデオだった)、実にいいなあと感心した記憶がある。

でも今回ここに書くのは、「にごりえ」のみであることをあらかじめ断っておく。というのも、ある日突然、淡島千景のファンになってしまった私は、それはもう必死こいて彼女の出演している作品を探しては見ることに明け暮れていた時期があって、『にごりえ』もそれで改めて見返したのであった。もちろん他の二話も見た。それなのに、今、手元にあるノートのどこを探しても、「にごりえ」の感想しか書いていないのである。馬鹿である。でも人間は所詮そんなもんである。

以下、感想。

淡島千景に圧倒される。1953年と言ったら、映画にデビューしてからからまだ3年しかたっていないよ。それなのに何だよこの演技力。演技力というものを、これほどおけいちゃん(淡島嬢の宝塚時代からの愛称)から感じた作品は、今までなかったかもしれない。まわりの俳優が文学座だったこともあるのかもしれないけれど、「にごりえ」の演技を小津安二郎が褒めたっていうの、ほんと納得しましたです。

にごりえ」の主人公のお力というのは、「たけくらべ」の美登利と並んで、一葉作品でも人気を二分する(と私が思い込んでいる)キャラクターだと思うが、このお力、(たぶん男性から見れば)非常にわかりにくい。気風がよくてキビキビしてるかと思いきや、自堕落で投げやり、決して人には心を許さない。しかし、馴染みの源七やその妻子に対する思いやりは妙に古風だったりする。お力と源七とのつながりは、結局、貧しい者同士の気安さや連帯感。そして結城への思いは、自分の境遇から抜け出したいという、いわば憧れ。どっちにしても、愛情なんかありゃしない。

これ、一歩間違えれば病的で、何だかわけのわからない女になってしまうものを、よくもまあ、ここまで見事に演じたものだ。お力をやれる女優が他に浮かばなかったほどである。ましてや当時29歳、匂うような美しさである。

新開地の銘酒屋が舞台。今となっては文化遺産である「東京言葉」が、これほど美しく、かつ、彼女の資質そのものとして発揮されているのも珍しい。私が淡島千景を好きな最大の理由は、何よりもそのセリフ回しなのである。江戸、そして戦前の東京というものを彷彿とさせるのだ(見たことはないけど感覚としてわかる)。でも、『夫婦善哉』では関西弁、『人間の條件』では中国語をそれはそれは巧みに操っているわけですから、もとから言語感覚というか、耳がいい人なんだと思います。

お力は、本当に、くるくると揺れ動く女。男を拒み、しなだれかかり、自分の運命を呪い、割り切り……それが、くるくる変化する質の芝居をするおけいちゃんに合っているのだ。いやー、参ったね。同僚の娼婦との場面ではいかにもきたならしい感じだし、結城の前では色っぽい。源七を見る眼差しは複雑。相手次第でいくらでも変わる「受け」の見事さ。冒頭の、煙草を吸うシーンの自堕落な感じ。歩き方ひとつにしても、あくまでも銘酒屋の女であって、決して花魁ではない。

 淡島千景の所作というものは、どの作品でも本当にいちいち美しく、たぶん、この方、自分の後ろ姿までちゃんとわかって演じています。

物語の途中に、お力の幼少期(極貧)が挿入される。松原岩五郎の『最暗黒の東京』など、本だけで知っていた「残飯屋」を映像で初めて見た(やはり勉強はしておくもんである)。そのお力が残飯を買った帰り道、ぬかるみに足を取られ、すべてをぶちまけてしまうのはさすがにベタすぎだろ、と思ったが、後から原作を読み返したらちゃんとこの場面ありました。嗚呼。セリフもかなり忠実に再現されていて、これは脚本監修が久保田万太郎だからだと納得する。

でも、まあ、こういうところが一葉の甘さと言えば甘さなんだよなあ、と思う。

でも、この場面に関してすごいと思ったのは、幼少期のお力と、現在のお力が、ちゃーんとつながっているのが観客にわかること。意外とこういうのって難しいのよね。幼少期は幼少期、現在は現在で切れているのがほとんど。それはひとえに、現在を演じる役者が、幼少期をふまえていないからであります。生の連続性というのがわかっていない。今の自分しかない。ああ、情けない。

淡島千景は、正統派の美人ではない。それはわかっている。でも、この映画の彼女は本当に綺麗でした。