高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ヘンリー・コスター他『人生模様』(1952)

長いです。

私はオムニバス映画というのがめっぽう好きで、それはたんに自分が並外れて集中力がないからなのだが、この映画は、O・ヘンリーの短編を、コスター他4人がそれぞれ監督した5話から成っているものである。全編を貫くナレーターとして、本物のジョン・スタインベックが出演しているので、何よりそれにいちばん驚く。「スタインベックが動いてる!」という、およそいつの時代の人間かわからないような感動を味わったわたくし。

しかし、である。オムニバス映画は、全体を貫く何かがないと成立しない。それは、すべてのエピソードに登場する俳優だったり、小道具だったり、いろいろあるわけですが、肝心なのは、それはあくまでも映画的な効果を念頭に置いたものでなければならない、ということ。だって映画なんだもん、当たり前じゃん。そう考えると、スタインベックという著名人を登場させただけというのは、ちと弱いかな、とは思いました。

そしてここでもまた考えさせられたのは、原作と映画の関係。どちらが出来がいいかとかそういった思考からはさすがに卒業しましたが、何と言ったらいいのか、構造というか仕組みの問題ですかね。ちなみに、O・ヘンリーは、理屈抜きで好きな作家。子どものころに好きだったものは、たぶん一生忘れないんだろうなあ。

第1話「警官と賛美歌」。ヘンリー・コスター監督、チャールズ・ロートン主演。浮浪者のソーピーのねぐらはマディソン・スクエアのベンチであるが、そろそろ冬が近づいていたので、彼なりの冬支度を始めねばならない。それはつまり、軽い罪を犯して3か月ほど刑務所に入ること。しかしこれがことごとく失敗する。何にせよ、欲しているときは、なかなか手に入らないものです。

このソーピーを演じるチャールズ・ロートンが出る映画、まずもってハズレはないと断言できる。この映画においてその真価が出るのは後半。犯罪にことごとく失敗した彼は、行き暮れて教会に入る。そして、賛美歌が流れるなか、号泣して改心します。ああ俺はバカだった、明日からは真面目に働こうと。ここがもう、悲惨であると同時に滑稽すぎて滑稽すぎて、こちらとしては笑うしかないのである。まるでシェイクスピア劇のような大仰さなんだもん。もちろん、狙ってやっているわけだけど。トーマス・マンではないが、「滑稽」と「悲惨」というのは重要命題だよなー。

なおこの作品、教会を出たソーピーは即浮浪罪で連行され、めでたく?刑務所に放り込まれることになりましたとさ、というオチ。

第2話の「クラリオン・コール新聞」は、ヘンリー・ハサウェイが監督している。バーニー(デイル・ロバートソン)は、ある強盗殺人事件の犯人が、かつての友人であるジョニー(リチャード・ウィドマーク)であると確信し、接近する。しかしバーニーはジョニーに多額の借金があり、それをネタに逆に脅迫される羽目になり、逮捕することができない。そこでバーニーは一計を案じて…という話ですが、これは憎たらしいリチャード・ウィドマークの演技を見ればよろしい。ひとつ感心したのは、食事のシーンにおける彼のスプーンの持ち方。ひと目でその出自がわかる。

こういう細かいところをちゃんとやってくれている映画というのは、安心して見ることができますな。

第3話は、あまりにも有名な「最後の一葉」ですが、あまり感心しませんでした。監督はジーン・ネグレスコ、主演はアン・バクスターで、画家の役をグレゴリー・ラトフがやっている。私がこの原作の短編自体をあまり好いていないからでしょうか?違います。とここで出て来るのが、小説を映画化することの難しさ。

O・ヘンリーの短編は、どんな話にしても、「ささやかさ」がその醍醐味。特別な人間なんか一人も出て来やしません。そこにね、いかにもハリウッド的な音楽(想像していただけるとありがたい。しかもアルフレッド・ニューマンが音楽を担当してるんだからさあ…)を重ねたときの薄っぺら感ときたらもうね…。物語の発端、男に捨てられたアン・バクスターが失意のあまり吹雪のなかを彷徨う。そしてついにアパートの前でばったり倒れる。ここで流れる音楽がまあ仰々しいこと。まったくもって興醒めであるよ。

そもそも、原作にはこのエピソードはなく、ジョアンは素っ気なく肺炎にかかるんだよな。短編を映画化する難しさですよね。でも、膨らませてかえって貧弱にしてどうするんだよって話。

第4話の「赤い酋長の身代金」これがいちばん面白かった。ハワード・ホークスらしい喜劇。サム(フレッド・アレン)とビル(オスカー・レヴァント)の二人はまとまった金が必要になり、田舎の町の有力者の息子を誘拐し、身代金をせしめようと企てる。首尾よく少年を拉致したものの、この小僧が、近隣の人々が恐れおののくほどのとんでもない悪ガキで、二人はきりきり舞いする…という話です。

この映画の何が成功したかって、主役の一人にオスカー・レヴァントを配したことでしょう。この人、本職はれっきとしたピアニスト。でも、『巴里のアメリカ人』なんかを見てもわかる通り、コメディの才能がとっても豊か。たいていの映画、彼はピアニスト役で出ており、すばらしい演奏を聴かせてくれますので、画面にオスカーが登場した瞬間、「え、どこでピアノ弾くの?」とワクワクしながら見ておりましたが、最後までピアノのピの字もありませんでした。つまり、純粋な演技者としてのオスカー・レヴァントが見られます。

端々が面白い。たとえば、二人が小僧を拉致するシーン。ここ、家のなかから母親が一部始終を見ているんですね。奥行きのある構図。母親。窓。窓の向こうでは3人が何かもぞもぞとやっている。あ、息子が袋に詰められた。いなくなった。それを、室内にいる夫に、のんびりと逐一報告する母。父親も生返事。どうせいつものことだろう、的な。これだけで、息子がどんな子なのかわかる。

また、サムとビルが人里離れたところにアジトを構えて野宿するシーンもよかった。二人とも、パリッとしたスーツが汚れないよう、その上からダブダブのパジャマを着、ナイトキャップもちゃんとかぶり、仲良く並んで寝る。何とお茶目な。なお、この後の小僧ときたら、二人が寝静まるのを見届けて、餌をまいて野生のクマを誘導して襲わせるんですけれどもね。

原作よりこれは面白かった。ここで、原作を膨らませるのではなく、細部を映画らしく補ったりアレンジしたりすることが、成功の秘訣なのではなかろうか、ということに思い至る。

最後の第5話は、ヘンリー・キングが監督した「賢者の贈り物」ですが、特筆すべきものはない。「最後の一葉」と同じく、仰々しく安っぽかった、ということだけは言っておこう。

いい話は、映像にするとたいてい安っぽくなる。