高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

陳凱歌『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993)

誰にでも、忘れられない映画というものがある。その映画の、純粋な出来不出来とかいうことではなくて、その時の生にとって忘れられないという意味においてである。

私にとっての、『さらば、わが愛』は、まさしくそういう映画だった。

この映画は、日中戦争文化大革命などを背景として、時代に翻弄される京劇役者の蝶衣(レスリー・チャン)と小楼(チャン・フォンイー)、娼婦であり、小楼の妻となった菊仙(コン・リー)の3人の関係を軸に、近代中国の50年を描く大作である。

娼婦である母に捨てられたレスリー・チャンは京劇の女形で、幼少期からともに育ち、稽古を受けて来た小楼に同性愛的な思慕を抱いていたが、彼はその美しさから、一座のパトロンに身体を与えることになる。一方、相手役の小楼は、舞台と実人生は別というタイプで、菊仙と結婚する。蝶衣は菊仙に激しい嫉妬と憎悪を抱き、小楼とも絶交するが、阿片中毒となり、日本軍へも芸を売る。舞台に立てなくなった小楼も一時は堕落するが、菊仙とともに蝶衣を阿片中毒から立ち直らせ、3人の関係は、歴史に翻弄されながらも途絶えることがない。

しかし、文化大革命とともに、悲劇が訪れる。蝶衣は、かねてから自分と同じ境遇の捨て子であった小四を拾って養育し、女方として育てていたのだが、小四が新思想に順応し、蝶衣を陥れて京劇のトップスターの地位を手に入れる。

圧巻なのは、過去の遺物として京劇が弾圧、蝶衣と小楼が群集の前に引きずり出され、自己批判を求められる場面だ。愛と憎しみが入りまじるなか、二人は過去の罪を暴き合い、お互いを裏切る。この、ボロボロになった姿で引きずり出された蝶衣が、「僕を裏切ったな」と言うときの絶望のクローズ・アップは今も忘れられない。菊仙も娼婦であった過去を暴かれ、小楼は彼女と別れると言い出す。菊仙は首をつり自殺する。

まったく、このクライマックスにすべてがあるように、私は、人間がかくも無残に人を裏切り合うシーンに、はっきり言えば号泣した。どんなに愛を持っていても、簡単に裏切り傷つける、人間の弱さと儚さを感じた。

時は流れ、11年後、文化大革命も終わりを告げ、2人はまた舞台で競演できることになる。しかし蝶衣は、おもむろに小楼の刀を抜き、劇中の虞美人同様、自らの命を絶つのだった。

この映画が公開されたのは1993年で、私は高校3年生であったから、リアルタイムでは観ていないということになる。これを観たのは運命としか言いようがない1996年で、どうして観たのか今もってはっきり思い出せないのだが、1996年であることに間違いはない。

私はこの年、それまで付き合っていた女の人から、突然別れを告げられた。その人に男の恋人ができたのだ。私は荒れ狂った。体重は減り、家から出なくなり、刃物で自らの体を傷つけた。死のうとした。その女の人には暴力をふるった。ここで大変よくなかったのは、その人に恋人ができても、私との肉体関係だけがしばらく続いたことである。まったく、地獄の日々だった。人間の愛憎の執着というのは、地獄そのものである。

そんな時に、観たのが、この映画だった。もう、これだけで、わかっていただけるだろう。この映画は、私の人生そのままだった。レスリー・チャンは私だった(もっとも、私はこの美しさを持ち合わせてはいなかったが)。

そして、少なくとも、この映画を観ていた時間だけは、私は現実を忘れていたと思う。死ぬ前に観てよかった、と思った。もしかしたら、私が芸術の力というものを初めて感じたのは、この時だったのかもしれない。少なくとも、数時間だけ、この映画は、一人の人間を死なせなかった。

すでにそうした出来事が遠い昔になってから、私はこの映画を再び観た。自分とはまったく無関係に、やはりこの映画は優れた作品だと思った。中国映画がいっきに花開いた時代というのがあり、これはそれを代表する作品である。そして、それは、レスリー・チャンの一世一代の名演技によるものだった。この蝶衣の演技はまさしく神がかっており、それは不吉なものを感じさせるものだった。

俳優に限らず、作家でも、芸術家が、あるラインを越えてしまうというのはしばしば目にする。ああ、この人は、近いうちに死ぬ、おそらく本人も無意識のところでそれを予覚しているのではないかと思わせる何かが。

レスリー・チャンは同性愛者であった。そして、この映画から10年後、46歳の若さで自殺した。

この映画に関して欠陥があるとすれば、小楼役のチャン・フォンイーの演技があまりにも大味すぎることだった(コン・リーはさすがだった)。それは、レスリー・チャンも不満を述べていたことである。はっきり言えば、蝶衣がここまで愛するだけの価値がある男には、どうしても見えなかった。

そして私は、かの女の人が、自分がボロボロになるまでに愛する価値のある人ではなかったということに気づき、愕然とした。

そこからさらに歳月は経過した。私は愚かなひとりの人間にすぎず、蝶衣だけでなく小楼も菊仙も、自分のなかにいることを感じるようになった。