高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』の恩恵

その時々、あるいは年年で、好きなタイプの人間というものは違う。たぶん。

40歳を過ぎた頃、この年にして、ようやくというか、これぞ理想の男、という人に巡り合った。フィリップ・マーロウ。彼を知った時、私は何か、自分の人生がひとつ打ち止めになったと思った。

どこが好きかと問われれば、躊躇なく、「全部」と答える(子どもか)。

実は、ミステリ好きでありながら、ハードボイルドには長らく抵抗があった。なぜなのだろう。だからと言って、本格物を偏愛しているというわけではないのに。おそらく、私の勝手なイメージ―――安っぽいアメリカ映画、やたらにドンパチを繰り返し、主人公の探偵は酒も強けりゃタバコもやる、すごい車を乗り回し、女には手が早く、金髪の美女を抱き、そして必ず絵に描いたような悪玉(ステレオタイプの巨漢)が現れる――まあざっとこんな偏見を持っていたのだ。

だから、たとえば、今ではもう古くなってしまったハヤカワ文庫の、『海外ミステリ・ベスト100』に、人気作品で『長いお別れ』、そして人気キャラクターではフィリップ・マーロウが第一位を獲得し、作家でもチャンドラーが二位に入っていても、なかなか読めなかったのだ。そして、長い時間が過ぎた。

不惑を過ぎ、いくらなんでもそれは恥ずかしいと思い立ち、半ば義務的に『長いお別れ』を購入した。とりあえず代表作ひとつぐらい読んどきゃいいだろ、ぐらいの気持ちであった。そして私は、完全に打ちのめされてしまったのである。たとえばこんな文章に。

翌朝、私は昨夜の思いがけない報酬のためにいつもより寝すごした。コーヒーを一杯よけいに飲み、タバコを一本よけいに吸い、カナディアン・ベイコンを一切れよけいに食べ、もう電気剃刀を使うのはよそうと三百回目の誓いを立てた。それで、一日が正常になった。十時ごろ、オフィスに着き、郵便物を拾いあげ、封を切って、デスクの上においた。窓をあけはなして、夜のうちに空気にこもった塵の匂いを追い出した。死んだ蛾が一匹、デスクの隅に羽根をひろげていた。窓のわくに羽根が破れた蜂が一匹、すでに多くの使命を果たして飛びすぎたために巣へもどれないことを承知していながら、弱々しい羽音を立てて這いまわっていた。

私が大好きな作家に、ウィリアム・アイリッシュがいる。とくに『幻の女』は――『長いお別れ』ですぐ思い出したのは、アイリッシュだった。はたして、ほぼ同時代であった。私は、この時代のアメリカに滅法弱い。

そして、日本人が、あと村上春樹なんかが、チャンドラーが好きだということが、わたしはとてもよくわかった。ひとつは―――というか、これが一番大きいような気がするが、「私」という一人称。

日本語は一人称にすべての秘密があるといっても過言ではない。なじみやすいとかいう次元の話ではないのである。それから、細部へのこだわり。日本文学は筋ではなく細部です。私も、例外でなく、チャンドラーの作品はどれも、筋より細部を愉しみ味わい、しばしばうっとり(オイ、気持ち悪いなあ)することを第一にしている。

また何と言っても、清水俊二氏の訳がすばらしかった。私は、双葉十三郎訳のものも読んだ。ダメと言うわけではないが、清水氏のものがよかった。村上春樹のはどうなんだろう。いずれは読むつもり。私は彼の文学のよき読者ではないが、翻訳は信じている。

いずれにせよ、この『長いお別れ』のおかげで、私はダシール・ハメットロス・マクドナルドも読むようになった。いま、いちばん肌が合うのは、ハメットである。リリアン・ヘルマンとの関係も含めて好きである。ついには伝記にまで手を出すようになった。まったく、レイモンド・チャンドラー様様である。