高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

表現ということ①

※「現代文学史研究」第20号(2014年6月発行)より

 

最近、写真を、ふたたび、撮り始めた。

学生のころの一時期、写真の道に進もうかと考えるほど、結構本気で取り組んでいたのだが、読んだり書いたりすることに忙しくなってから、そちらの方が面白くなり、しだいに離れていった。そのうちデジタル化の波が押し寄せ、愛用していたカメラも壊れ、私にとって写真はいよいよ過去のものとなった。

それを、ふたたび、始めたのである。思いきって、新しくデジタル一眼レフカメラを購入した。ただ、眼の前にあるものをまっすぐに見たいと思ったからである。海も山もすぐ手の届くところに住むようになって、そのうつろいを、なすすべもなく黙って眺めていることに、いつしか耐えられなくなったのかもしれない。

もっとも、見たままの風景を撮れることなどほとんどない。それは、カメラという機械を通して対象を見ている、といったつまらない理由からではなく、ノンフィクションが事実ではないというのと同じ意味においてである。所詮、どこまでいっても作りものなのだ。そのかわり、現実を超えることもある。写真は、瞬間の芸術とも言われる。二度と戻らない一瞬を永遠にしようというのだから、突き詰めて考えれば、なんだかおかしなことである。つくづく、表現というものは、良くも悪くも、人間だけが為し得ることなのだと思う。

対象をそのままとらえたいという願いは、言葉だろうが写真だろうが変わらず、しかし何かを形にして遺すという時点で、すでに私の手が入っているわけだから、それは対象そのものではない。表現するということはまったくもって矛盾だらけで、そのうち、いったいお前は何がしたいのだとすべてを投げ出したくなる。いったいお前は何を見ているのだ、見ようとしているのだ。何を聴き、何に触れ、とどのつまり、いったい何を感じているのだ、何を感じたいのだ、と問うてみる。

写真にのめり込んでいたころだから、もう十年以上も前の話になるが、土門拳の『古寺巡礼』に憧れ、奈良の室生寺へ行ったことがある。女人高野とも呼ばれる室生寺は、近鉄線が走ってはいるものの、行くにはちょっとした勇気が必要で、なにしろ室生寺がある室生村には、それ以外何もない。さもしい心では、まず行く気にはならない場所である。

大阪の上本町駅から室生口大野駅まで行き、そこからバスに乗り換え、終点で下車する。少し歩くと、はたして、初めて見る、見慣れた室生寺がそこにはあった。

国宝である金堂をはじめ、五重塔弥勒堂、おびただしい数の仏像を見た。しかしそこには、土門拳の写真以上の建造物はなかったし、仏像もいなかった。彼は、被写体から、被写体以上の何かを取り出していたのだった。いや、それだけではない。今日までの長い歳月、季節の移り変わりからそこを訪れたであろう無数の人々まで、一瞬にして写し撮っていたのだった。

数日後、帰宅してから、あらためて『古寺巡礼』を開いてみた。「室生寺 精神ヶ峯の朝霧」。室生の山の木々にかかる霧を撮影したものだ。たった、それだけ。しかし、モノクロームのその世界は、白から黒までの無限の諧調があって、カラーよりもかえって、その風景の持つ微妙な色彩から陰翳、質感までが見事にとらえられている。なるほど、確かにそうであった。

私が室生寺に到着したのは、もう夕方近くであったので、当然ながら朝霧は見ていない。しかしこの日は、たまたま激しい雷雨にぶつかって、室生寺を囲む山々には、濃い霧が立ちこめていたのであった。私が眼にしたものは、土門拳が撮った写真と寸分違わぬ霧だった。それだけではない。建物も、仏像も、まぎれもなく、私が先日見たものと同じだった。そして、これまでは気がつかなかったのだが、なんだか皆、嬉しそうに撮られている。己以上に己を理解し、愛してくれる人間にめぐり逢えたような喜びが、そこにはあふれていた。

私がもし今、ふたたび室生寺を訪れたなら、何を見るのだろう。すぐれた写真を見、現実を見、また写真を見て、さらには十年という月日を重ねた今、私は何を見ることができるだろうか。

この手の問いには、しばしば取り憑かれる。

ホームドラマを見る。親子、兄弟姉妹、何でもよいが、それぞれを役者が演じる。あくまでそれは作られた世界であって、彼らの間には血の繋がりも何もない。何よりもまず顔が似ていない。当たり前である。血はまず外形に現れる。しかし見ている者は、そのなかの血縁者同士の顔が似ていないことに、何の文句も言わない。疑問も抱かない。役者たちに血の繋がりがないこともよくわかっている。それでも、見る者は、そこにまぎれもなく「家族」を見ている。役者が演じる、何か眼に見えないものを見ている。リアルであってリアルではない、リアルではないがリアルな、つまり「家族」としか言いようがないものを見ているのである。

そこで私の思考は飛躍し、たとえば岩野泡鳴や、三島由紀夫といった作家が、戯曲にこだわったということが、なんとなくわかったような気になるのである。しかし残念なことに、そこに至るまでの論理的な道すじはない。

そもそも、自分は、幼いころからリアルであってリアルでないものにひかれる傾向があって、今でもその境界を目指しているような気がする。リアリティのあるなしは、文学の世界でもよく議論されることではあるし、ないよりはあったほうがいいに決まっている、と思うのだが、一方で、どうせ作りものなのだから、作りものらしさがあってもいいのではないかという気持ちもある。

 

※②につづく