高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

小津安二郎についての未完成の覚書

小津安二郎の映画に最初に惹かれたのは、中学生の頃だったから、もうずいぶんとむかしになる。それこそ、何度観たかわからないが、自分が40歳になるかならないかの頃だろうか、ふとした気まぐれから小津安二郎の作品ををいくつか観直して感じたのは、彼の作品の根底が恐ろしく陰惨なことであった。

時に役者のコミカルな演技や、原節子に象徴されるように、人間存在の可能な限りの理想化でくるまれてはいるが、ふと、その陰惨さは透けて見えたり、亀裂が走って顔を覗かせる瞬間がある。そのおぞましさといったらなかった。救いようがないとさえいえた。彼の作品系列のなかでも、陰惨さが前面に出た作品が概して不評なのは(「風の中の雌鶏」「東京暮色」)偶然ではない。

また、彼の傑作といわれる作品群は、登場人物において聖と俗が分かれたものにおいてである。聖なる位置に置かれる代表は原節子である。その彼女演じる紀子が――「晩春」ではエレクトラ・コンプレックス、「麦秋」では家族の意に添わない結婚、「東京物語」では未亡人として、性的な欲望の手綱を抑えきれない姿を垣間見せるところに、どのドラマも山場があり、見せ場があった。つまり、聖なるものの汚辱を見せる瞬間である。もちろん原節子は、それをあからさまには見せなかった。だから、よかったのである。

ある意味では、小津の内面は、文学者で言うと坂口安吾的だったといえば穿ちすぎか。整然とした画面作りを旨とした小津と、無頼派安吾では、いくらか無理があるかもしれない。だが、坂口安吾の中にも、絶対的な聖性への希求があった。そしてそれを汚さずにはいられないのも安吾だった。さらに言えば、小津安二郎の私生活というのは、彼の映画のようには必ずしも整っていなかった。

俗のラインにいる代表は杉村春子である。それから、主人公の親友役で配される「アヤ」なる娘。淡島千景から岡田茉莉子に連なる2.5枚目のライン。これらはいずれもリアリティがある。「女」は概してお節介で誰にでも説教をしたい。いささかステレオタイプではあるが、それを見事に演じている。小津は女をよく知っている。しかし、その理想化に関しては――私はあまり認めたくない。こんな女はいない。作れるのは作品の中だけである。

聖なるものが俗に侵食された時、どうなるか。それが小津のテーマであった。私は「麦秋」が最高傑作だと思っている。あの、「美しい」愛情で結ばれた、閉ざされた、そして肝心なものをひたすら見ないようにしていた間宮家は、性的な話題で下品な笑いを提供する紀子の上司(佐野周二)の見合い話や、杉村春子の無神経な言葉で崩壊の道をたどる。それをそう見せないところに、小津の真骨頂がある。

小津は、「人間を描けば社会が出るから映画で社会を描く必要はない」と言った。香川京子によれば、「僕は社会のことには興味がないから」と言ったという。これはおそらくすべての「作品」に当てはまることである。川端康成の戦後の作品は、どれも人間を描いているのに見事に「敗戦後」である。井伏鱒二も同様だ。声高に社会というものに対して声をあげることはない。今、ここに生きている人間の主調低音を掬い上げることが、とりもなおさず社会を映し出すのである。

私が小津映画に魅かれるのは、結局、そのいささか不自然なスタイルに他ならない。映画は作り物である。作り物としての性格をはらんでいなければ映画ではない。同時に小津の描く世界はリアルである。リアルすぎてもリアルすぎなくても駄目だ。

小津のシナリオを読むと、あらためて会話の素晴しさに驚かされる。何でもない会話の繰り返しである。しかし、そこに見事にその人物の性格が現れるようになっている。一体、日本の文学――もちろんここでは小説だが――会話がすごい、と思わせるものがない。小説家が気を配ったのはどうしても描写であった。現代になると、もはや小説内の会話は増えたものの、それは日常会話との差がなく、つまり言語芸術たりえるものではなく、読むのは楽でも決して印象的ではない。もしくは村上春樹のような、洒落た比喩を駆使するような会話しかない。

会話で性格を表現するというのは、実は西洋の小説に近い。そこに生きる人物たちはみな、まあ驚くほどよくしゃべる。ドストエフスキーの小説の登場人物たちを見るがいい。まあそれはよくしゃべる。私は昔、大真面目に、この違いは食べ物の違いだと思った。肉を食っているからこんなにしゃべる力があるのだろうと。アガサ・クリスティーの描くミス・マープルは、その会話から、古き良き時代の英国老婦人の性格というものを感じさせる。その皮肉さえも。

小津の映画の会話は、古びていない。現在においても。これは稀有なことである。

「監督のオクターブは持って生れたものだから、たやすく変えられない。成瀬君や僕などは低い。黒沢君や渋谷君は割合に高い。溝口さんは低いような顔をしながら実は高い。そういうモトになる調子があるんだ」

小津安二郎の、これははっとさせられる言葉だった。私自身のことだけでなく、好みも当てられている。これはすべての人間に当てはまる。結局、生に惹かれるか、死に惹かれるかの差である。

私は、実は病的に落ち着きがない。映画も、じっと座って、集中して観ることが出来ない。途中でどこか飽きてしまう場合がほとんどである。しかしなぜか、小津作品に限って言えば、そういう経験がない。あのおそろしくゆったりとした、ややもすれば単調な世界であるのに、ワンショットワンショット、私は気を抜いたことがない。集中しているのと同時に、心地よいリズムに包まれる。この秘密は一体何なのであろうか。

小津安二郎の映画については、いずれ、きちんと書きたい。これだけ研究されている作家でも、言わずにはおれない何かがある。