高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

語り得ぬもの、少しだけ坂口安吾のこと

「僕は小説を書きながら、その悔恨の最大のひとつは、巧みに表現せられた裏側には、常に巧に殺された真実があつた、といふことであつた」(坂口安吾「作家論について)

わたしが本当に心酔している文学者は坂口安吾ただひとりであって(詩人にもひとりだけいるが、ここではあえて書かない。何というか、そのひとの名を不用意に口にしたくないのである。触られたくないのだ)、それは彼がひたすら自分の文章を書くあまりに、小説、批評、エッセイといったジャンルを軽々と越境してしまったことにも、大きな要因がある。

安吾はあくまでも自分を小説家として認識していたし、他人からもそう呼ばれたがった。しかしながら、彼の文学的生涯を見渡したとき、総合的に成功しているのは批評やエッセイであった。彼をスターダムにのし上げたのが「堕落論」であったことを忘れてはならない。こんな作家は他にはいない。小説は、もちろん「桜の森の満開の下」や「夜長姫と耳男」といった傑作があるにしろ、それはどれも説話的な要素においてその力を発揮する。自身が志向した小説ではなくエッセイが成功してゆく、ここに坂口安吾の見えないかなしみが見えてくる。

文学とは、本来、どのジャンルにおいても、語り得ぬものをどうにか言語化しようとする試み、とは言えないだろうか。少なくともわたしにおいては、そうである。言葉というものには常に限界があって、文学者とは、無駄だとわかっていながら(わかっていない場合、これは文学者とは言えない)、どうにかこうにか悪あがきをする輩のことである。違うか?

そこに達成感が生まれることはまれで、いつもどこか不完全燃焼というか、満たされぬ思いが付きまとう。表現したいことを表現する言葉がこの世にないことだってしょっちゅうなのだ。仕方がないから。またぞろ何か言葉のカタマリを創造しようと動き始めるのである。それは快楽であるのと同時に地獄だ。しかし、それがなければ生きてはゆけないのである。

わたしは最初、文学研究を志向した。己を消せば消すほど、対象は鮮やかに浮かび上がった。しかしその行為はわたしをいたく苛んだ。昨今の、パターン化された論文でないと学術雑誌に投稿しても査読落ちする、そういう状況もそれに拍車をかけた。わたしはただ自由になりたくて、文学を始めたはずなのに。何とつまらないことだろう。

詩を書くようになって、わたしは少しずつ自由になり始めた。詩で表現できないなら、批評で。エッセイで。あるいは短歌で。論文に戻ったっていい。事実、わたしは、どうしても書き残しておきたい論文がいくつかある。結局、語り得ぬものがあるからこそ、わたしはそれを追い続けることができる。ジャンルを越境する楽しさを、いま、存分に味わっている。

語り得ぬもの。それこそが、文学を文学たらしめるのではないか。語り尽くしてしまえば、文学者は沈黙する。たとえば、志賀直哉のように。だけどわたしは、いつも、語り得ぬものの前で苦しんでいたい。言葉にならない何かのために、わたしはきょうももがく。生きる。生きて、書く。