高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

宣伝ならびに文学について最近思ったこと

突然ですが、最初に少しだけ宣伝をさせていただきます。

2023年11月11日、追手門学院大学茨木総持寺キャンパスで開催される、昭和文学会秋季大会「特集:女性の/エッセイ再考」に、「批評とエッセイのあいだ――三枝和子『恋愛小説の陥穽』をめぐって――」という題で研究発表をし、その後のシンポジウムにも登壇いたします。芥川賞作家・津村記久子さんの講演もあります。会員以外の方も、どなたでも参加できますので、興味のある方はぜひお越しください。オンライン併用のハイブリッド開催です。詳細はこちらから。

2023(令和5)年度 昭和文学会 秋季大会の詳細 | 昭和文学会公式website. (swbg.org)

教員の仕事と、発表の準備に追われている毎日ですが、少し、思ったことを書きたいと思います。

最近、授業で坂口安吾を取り上げる機会がありました。そこでわたしは、かつて自分が安吾について書いたエッセイを配布したのですが、これがなかなかいわくつきのもので、発表当時、指導教官の先生以外は誰も評価してくれなかったものでした。その理由は、「批評」なのか「随筆」なのかわからない、というものでした。似たような理由で、わたしはある著名な研究者の方のブログで、これが「読む価値なし」「時間を返せ」という感じで書かれたことを知っています。

無視されることよりも批判される方がましなのでいいのですが、こういうジャンルの立て分けなどにこだわるのは、概して男性と呼ばれる方に多いように思います。詩に関しても、わたしの書くもの、「これは詩ではない」と何度も言われ続けて来ました。それもやっぱり男性の皆さんなのでした。

今回の昭和文学会の発表準備に追われるなか、自分が「批評とエッセイのあいだ」というテーマを掲げたのは、決して偶然ではないのだと思います。そして、坂口安吾が好きな理由も。わたしは、生きること、文学、文章のひとつひとつまで、多くのことを安吾から学びました。彼も、小説とエッセイの区別が本質的にない作家です。書いたものがすべて、なのです。みんな、自分の信じる文学を追究するだけです。小林秀雄だって言っているではありませんか。書きたいと思うことを書いていたら、それが文芸批評と呼ばれるようになった、と。

文学者には文学者の論理というものがあるので、たとえば恋愛にしても、そんなのよくあること、とか、早くそんなひと忘れなよ、とか、その後彼女のことは吹っ切れましたか、とかいう「普通」のひとの論理や感覚は一切通用しませんのであしからず、と言いたいときがあります。呪いと祈りで生きている人種なので、執念深いんですよ。

そんなわたしは、きょうも坂口安吾の言葉をお守りに生きます。「私は誰?」から。

私は然し、生きているから、書くだけで、私は、とにかく、生きており、生きつゞけるつもりでいるのだ。私は私の書きすてた小説、つまり、過去の小説は、もう、どうでも、よかった。書いてしまえば、もう、用はない。私はそれも突き放す。勝手に世の中へでゝ、勝手にモミクチャになるがいゝや。俺はもう知らないのだから、と。
私はいつも「これから」の中に生きている。これから、何かをしよう、これから、何か、納得、私は何かに納得されたいのだろうか。然し、ともかく「これから」という期待の中に、いつも、私の命が賭けられている。
なぜ私は書かねばならぬのか。私は知らない。色々の理由が、みんな真実のようでもあり、みんな嘘のようでもある。知識も、自由も、ひどく不安だ。みんな影のような。私の中に私自身の「実在」的な安定は感じられない。
そして私は、私を肯定することが全部で、そして、それは、つまり自分を突き放すことゝ全く同じ意味である。