更新が滞っていますね。ここでの駄文を楽しみにして下さっている方がいらっしゃいましたら、本当に申し訳ありません。
実は、noteには書きましたが、今年の自分の誕生日(6月1日)に合わせて、第一詩集を出す予定でおりまして、現在、その制作に追われております。詳しくはこちらの記事からどうぞ。
詩集を出そうかなと思っています|高山京子 (note.com)
私の本業は文学研究ですが、約5年前に適応障害から鬱病を発し、日常生活さえも困難になりました。本なんか、読めたものではありません。鬱病というのは、気力がなくなる、気分が落ち込むだけでなく、身体的にもいろいろな症状が起こります。とくに、頭がまったく働かない。本の内容も他人の話も頭に入って来ない、重たくて、痛くて、ひどいとめまいや吐き気がし、文字通り、一歩も動けなくなります。
それでも文学をあきらめられなかったのでしょう、私は、詩を書き始めました。最初は、X(当時のTwitter)に少しずつ。そのうち、noteに発表し、詩誌に投稿し、ぼちぼち作品が掲載されるようになりました。
そういうなかで書き溜めたものを、今回、詩集にしようと思っているのですが、まあ、一冊の詩集を編む以上はコンセプトがあって、その順番や配列にはいちばん気を遣いました。かなり時間をかけました。でも。でもね。私には、「本は最初から最後まで順番に通して読まなければならない」というような考えはありません。読者の手に渡ったものは、読者のものなんですよ。どこをどう読もうが自由なんです。究極、読むのをやめたっていいわけです。
私がなぜこんなことを書くかというと、作り手の不必要な、過剰な思い入れこそが、逆に芸術の可能性を狭めているのではないかという、当たり前のことをもう一度確認したかったからです。詩の世界では、それが非常に強いのではないかと感じています。このご時世、本を読む人なんてなかなかいません。まして詩集をわざわざ読むなんて!ということで、当然、詩を書くひとたちは、詩集を出すにもほぼほぼ自腹を切ります。だから自由と言えば自由なんですけど、その装丁が思い入れ過剰な写真だったりイラストだったりするとね。
もうね、はっきり言います、読む気が失せます。気持ち悪いと感じてしまうものさえあります。
中身がいくらよいものであっても、手に取ってもらわなければ、どうにもならないのではなかろうか。作者偏重の考え方が、作品の読みの可能性をどれだけ潰して来たかは、もはや文学研究では言うまでもないことです。なぜ、わざわざ小さな世界に逃げ込むのだろうか。
大事なのは、過剰な思い入れではなく批評精神。その厳しさが、逆説的に、作品世界を豊饒なものにする。芸術は、人間が、自由に生きるためのものでもあるんですよ。これだけはいいたい。文学はね、自由なんだよ。したがって、私は、そういう信念のもとにものを書いていきたいし、今回、そんな詩集を作りたいと思っています。もし、ここに来てくださっている方にも、読んでいただけたら、これ以上の幸せはありません。とにかく、がんばります。