高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

2024-01-01から1年間の記事一覧

原点に帰る(ものを書くことについて)

某学会誌に投稿した論文が、査読で落ちたので、少なからずショックを受けている。参ったな。しかし、48歳になっても、落ちるひとは落ちる。だからもし、これを読んでいる若いひとで、似たような経験をしたことがある方なら、何も気に病む必要はない。大いに…

女の子とは何か

私には、少女時代というものがない。 性自認があいまいな自分は、ずっと、女の子というものがわからないまま育った。現代と比べて、昭和の御代にそういう生き方をするのはなかなか困難なことではあった。しばしば、ジェンダーレスな言葉遣いや振る舞いを母に…

言葉の快楽④ ちょっと脇道に逸れて、自分の性のことなど

言葉と快楽についての不定期連載。って、誰も読んでいないかもしれないが、今回は、なぜ私がこういう問題に関心を持ち続けて来たのか、それを考えてみようと思う。話が脇道に逸れるようだけれど、ちゃんとつながっている(はずである)。 それは結局、「性」…

文学は自由なんだよ。

更新が滞っていますね。ここでの駄文を楽しみにして下さっている方がいらっしゃいましたら、本当に申し訳ありません。 実は、noteには書きましたが、今年の自分の誕生日(6月1日)に合わせて、第一詩集を出す予定でおりまして、現在、その制作に追われており…

人称をこえて(ジェンダーの話など)

日本語の人称に、ずっと関心がある。文学をやっているのなら、当たり前のことだろうけど。一人称にひとつとってみても、「私」「わたし」「僕」「俺」「われ」「吾輩」それこそ無数にある。英語ならどれも「I」の一文字で終わってしまう。ちなみに、文学作…

アンリ・コルピ『かくも長き不在』(1961)

私がもっとも好きな女性作家はヴァージニア・ウルフかマルグリット・デュラスかということになるのですが、とにかく、すごい映画だった。話の筋を知っていてこれだけショックを受けるとは。デュラスの脚本がすばらしい。小津安二郎好きなデュラスだけあって…

言葉の呪縛、言葉からの解放

前回の投稿(言葉の快楽③)で、およそ100冊にもなる日記をすべて処分していることについて書いたが、おかげさまで、というか、めでたく、と言おうか、およそ50冊は廃棄した。研究に関する記述の部分は切り取っておくので、仕方なくざっと読むのだが、まった…

言葉の快楽③ 視覚型と聴覚型

若干思うところがあって、100冊ほどもあった日記について、研究に関する記述だけを切り抜いて他は処分することにした。最初に日記をつけ始めたのは2006年ぐらいなのだが、そのほとんどは恋愛関係を筆頭に苦悶の表情に充ちている。コンテナ1個分になるような…

言葉は、奪えない

この年まで生きてきて、それなりにいろいろあったが、言葉だけは、誰にも奪えなかった。言葉だけは、わたしのものだった。いや、わたしが、言葉そのものだった。 今までにも何度か書いてきたが、わたしは両親が不仲の、暗い、殺伐とした家庭に生まれ、育って…

ウディ・アレン『ブロードウェイと銃弾』(1994)

『ブロードウェイと銃弾』、ウディ・アレン。このひとについて発言するのは勇気がいる。作家の人間性と作品は同一視すべきなのか、完全に分けて考えるべきなのか。永遠のテーマ。でもこれを観たのは、この監督のあの問題が発覚する前のことで、日記にメモも…

言葉の快楽② 谷崎潤一郎のこと

言葉の快楽、文学と官能について考えようと思い立ち、まず脳裏に浮かんだのは谷崎潤一郎のことであった。私は某大学の授業で1920年代から40年代の文学を読む、というグループディスカッションを中心とした授業をやっているのだが、その柱に置いているのが彼…

言葉の快楽(連載するかもしれません)

言葉は、ひとつの快楽である。読む快楽がある。書く快楽がある。私は言葉に欲情する。 そんなことに気づいてから、実はずっと、自分は、言葉の持つ官能性を追い続けてきたような気がした。たとえばここに、永田守弘の『官能小説の奥義』(2007)という本があ…