高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

言葉の快楽(連載するかもしれません)

言葉は、ひとつの快楽である。読む快楽がある。書く快楽がある。私は言葉に欲情する。

そんなことに気づいてから、実はずっと、自分は、言葉の持つ官能性を追い続けてきたような気がした。たとえばここに、永田守弘の『官能小説の奥義』(2007)という本があるのも、こうした関心のひとつの表れだろう。「はじめに」には、官能小説(ポルノ)と文学の違いについての言及があって、そこにはたとえば、「中上健次の小説にも、濃厚な官能描写が頻出するが、彼が書きたいことは、そこにはないことを、読者はちゃんと知っている」とある。また、「向き不向きはあるが、小説家は誰もが、一度は官能小説を書いてみたいと思っているふしがある」「小説を書くからには、人間の根源的で支配的な欲望である性について挑戦してみたいと思うのは当然だろう」と書かれていることにも、私は全面的に賛同するものである。

こうした問題は、必然的に「文学とは何か」ということを考えざるをえないのであって、私は現在、これについて、「何かに命をかけること」と答えることにしている。それは三島由紀夫が傾倒したジョルジュ・バタイユの「エロチスムとは、死を賭するまでの生の讃歌である」という思想にも通じるものだろう。命をかけていないものは、つまらない。そもそも美しくない。私は面白いもの、美しいものを好む。

前述の永田氏の指摘にあるように、私に言葉、文学持つ官能性や快楽を教えてくれたのは、何と言っても中上健次だった。たとえば以下のような『枯木灘』の描写は、人間が生きることの愛しさ、せつなさに満ち満ちており、凄絶でさえある。

秋幸は紀子の首筋に唇をつけたまま、自分の尻が外からの日にさらされてケダモノのように動くのを想像し、ケダモノの精液を子宮の中にぶちまけてやる、と思った。紀子は体を固くした。自分の体にくい込んだ秋幸の体をひきはがすために力をこめてつっぱり、つめを立て、そして不意に離した。涙が紀子の眼にあふれ、体をだらんとしたまま、まだ尻を振っている秋幸の体を強く抱いた。秋幸は止めなかった。秋幸は座席にひざをついて紀子の両脚を上げさせそれを肩に上げた。紀子の体は二つに折りたたまれた具合だった。車の外の竹藪に風が吹き、葉がこすれ合う音が一斉にひびいた。紀子は首をあげ、唇を突き出して秋幸の顔に口づけた。秋幸は自分の体の中に脹れ上ったものがそうやって紀子の体に性器を打ちつけるたびに、ますますかさが増すのを知った。紀子が、苦しげに尻を振る秋幸を救けるように口づけし、腰を動かす。紀子はまた声をあげた。

それまでの秋幸は、紀子を壊れ物でも扱うかのように大事にしている。しかし、この場面では、秋幸がどれだけ追い詰められているか、そこでもなお生きようともがいているか、その切実さが伝わってくる。愛する者を犯したい、破壊したいというのは、いったいどんなときか。独りの時である。存在の死に直面した(あるいは、しそうな)ときである。どうしてよいか分らず、やりきれなく、泣き、わめき、狂いたいとき。誰かそばにいてくれ。受け止めてくれ。そういう自分を、どうか許してくれ。私はいったい何度、この場面を読んで、せつない気持ちになったことだろう。

こんなことを、少しの間、言葉あるいは文学から考えてみたいと思っています。なぜ、私たちは、言葉に欲情するのだろう?