高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

少し、ドストエフスキー『罪と罰』のこと

生きているのがいやになってしまうような、あるいは、苦しくてページをめくることにためらいを覚えるような、あるいは、人間存在のやりきれなさに打ちのめされるような、まあ、どんな言葉でも意を尽くすことができないのだが、そういう読書体験が、いくつか、ある。

思いつくままあげてみると、林芙美子浮雲』、中上健次枯木灘』、カフカ『城』、そして、ドストエフスキー罪と罰』。

このあまりにも有名な作品のあらすじなどは、今更追うてもはじまらない。だから、私が二度と忘れられない場面などをいくつかあげたい。これらは、あらすじではまず触れることができない部分なのであるから。

だいたいあらすじだとこうなる。

天才は何をしても許されると信じたラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺し、そこでたまたま出くわした別の婦人も殺す羽目になり、罪の意識におののく。ラスコーリニコフは、娼婦であるソーニャに出会ったことで罪を悔い、懺悔をする。

たったこれだけである。もちろん、他にも登場人物はたくさんいるのだけれど。

罪と罰』は、私の最初のドストエフスキー体験だった。

まず衝撃を受けたのは、ほとんど物語の冒頭部分で、事件としてはメインの殺人が行われることだ。その後は、えんえんと、罪におびえるラスコーリニコフの彷徨が続く。実に、この煩悶がこの小説の大部分なのである。

その執拗さに、私は日本文学にないものを感じたし、ドストエフスキーという作家の資質を鮮やかに垣間見たし、もっといえばロシアという国を感じたのだった。それはまったく、ロシアだった。ロシアとは何ぞや、と言われても答えることはできないが、歴史を学ぶより、はるかにロシアなるものの深淵をこの作品は表現している。

以前、国立新美術館で開催されたミュシャ展において、念願のスラヴ叙事詩を目にした時も、似たようなものを感じた。風土とか宗教とか民族とかが一緒くたになった、どろどろしたエネルギーの塊みたいなもの。

この執拗さがあったからこそ、追い込まれたうえでの劇的な結末場面が生きるのだ。まったく、小説という「生き物」が持つ、それは宿命であり宿業だ。結末への道は、究極は一本しかない。

罪と罰』で言うなら、神を信じないラスコーリニコフにとっての神の発見は、最初から不可避の運命だったのである。

彼は卒然としてソーニャの言葉を想いおこしたのである――「四つ辻へ行って、みんなの人におじぎをして、地面に接吻をなさいまし、あなたは地面に対しても罪を犯しなすったんですから。そして大きな声でみんなの人に向って――(わたしは人殺しです!)とおっしゃいまし。」これを思いだすと、彼は全身をわなわなとふるわせた。(本文より)

ラスコーリニコフの眼からは涙が迸り、彼は歓喜と幸福に包まれる。

罪を悔い、大地にひれ伏すというのは、やはり一神教でなくては考えられないことである。私はキリスト教徒ではない。しかしこの感覚はわかる。己の存在自体が罪そのものであるかのような感覚を味わったものでなければ、大地にひれ伏す意味はわかるまい。

ところで、実は、私が一番身につまされたのは、この場面ではないのであった。もっと前に、ラスコーリニコフがソーニャに罪を告白したとき、ソーニャは彼に「かわいそうな人だ」と言う。私はそこで突如、涙が吹き上げた

「あなたはかわいそうな人です」――私も、たった一言、誰かにそう言われたかったのだと思う。

ドストエフスキーは、間違いなく世界最高の作家だ。私のなかでは、それは死ぬまで変わらない。