高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

言葉をめぐるあれこれ

すでにあちこちで書いたりしゃべったりしていることなのだが、私にとっては非常に重要なことなので書いておく。

少しばかり言葉を扱うような仕事をしていて、折にふれて思い返すことがある。まだ幼いころ、どうしても解けない謎だったのが、なぜ、同じような話でも、書く(あるいは、話す)人によってこうも印象が変わるのだろうか、ということだった。

それは、自分のなかでは「個性」などという言葉で片づけられるような代物ではなく、私は昔からただこの一点によって人の好き嫌いを決めてしまうようなところがある。この人とは何だか合うな、という感覚も、話の内容そのものではなくて、呼吸や間合いのようなものによるところが大きい。

そんなわけであるから、フランスの大女優であるサラ・ベルナールが、レストランでメニューを読み上げるだけで人々が涙した、などという伝説を、私は最も好む。

この根本的な関心から枝分かれするかの如く、その後も言葉についてはいちいち引っかかったり、躓いたりしてきた。 たとえば、こんなときである。

1)学生時代、イタリアからの留学生(本当に、ミケランジェロの彫刻そのままのような美形の男性だった)と知り合いになった。当時、NHK教育テレビ(今ではEテレ)で、たまたま「イタリア語会話」をやっていた。パンツェッタ・ジローラモが出演していたやつである。その留学生は番組に対し、正直、理解できないレベルで怒っていた。彼が言うには、「あのイタリア語は、文法的に正しいイタリア語ではない。大学に行った人がしゃべるイタリア語ではない」のだった。大学を出たか出ないかで、「文法的」に言語が変わるというのは、日本で生まれ育った私には青天の霹靂であった。

2)これもまた知人(なお、この人は日本人である)の話。彼女がアメリカに行ったとき、ちょっとしたトラブルに遭遇した。そこで、然るべきところに電話をかけた。電話の相手は「あなたは何人だ」と問うた。「日本人だ」「何だ、西ネバダ州の人かと思った」。あの広大なアメリカ大陸で、何故にピンポイントで西ネバダ? 東西で、そんなに、違うのか? 関西弁とひとくくりにしても、大阪弁と京都弁のように、はっきり、違うのか?

3)ジョーン・クロフォード主演の『ダンシング・レディ』という映画は、しがないクラブのダンサーがブロードウェイで成功をつかむまでの物語だが、オーディションの場面で、「あの娘は南部訛りがあるから云々」というセリフが、かなり侮蔑的な感じで使われる。たぶんこれは、日本における東北弁の扱いを超えているような気がする。なおこの映画、フレッド・アステアの映画出演第一作目であるが、それについてはここでは関係がないのでやめておく。

4)英語の前提条件として、キリスト教があるということ。そんなことから、たとえばキリスト教文化圏のミュージシャンの歌なんかを日本語訳にすると、どこか珍妙なものになる、ということ。なお、聞いた話では、宗教社会学者などが日本語に訳したものは、とてもいいらしい。

5)イギリスの文学には、ちょっとしたミステリに至るまで、よく、「彼女はきちんとした英語を話した」というような一節が出て来る。これは何よりもかの国の階層社会を示していて、日本人には根本的には理解できないことである。日本の場合、言葉の違いが如実に出るのは第一に土地の訛りである。

6)なお、⑤に関連して、私がコリン・デクスターのモース警部シリーズを愛してやまないのは、とにかくモースが言葉にうるさいからである。彼は、一冊に一回以上の割合で、部下の作成した書類の英単語の綴り間違いに苦言を呈する。手紙の文句や言い回しに、いちいち感想を持つ。彼は、オックスフォード大学セント・ジョンズカレッジの出身なのである。

7)エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』を最初に読んだのは小学生のときだった。何十年もたって読み返してみて、いちばん面白いと思ったところが変わっていなかった。それは、殺人事件の発生時、犯人らしき者の声を聞いたという人々の証言が、見事に食い違っていたことである。みな一様に、「その国語を知らないので」、あれはフランス人だった、スペイン人である、ドイツ人だ、ロシア人です、イタリア人に違いない…と言うのであった。なお、これは、事件解決の重要な糸口になる。

8)最後に、宗教に関連して。さまざまな宗教がある。それを、さまざまな人が信じている。そこには、さまざまな国があり、言語がある。人々は、思い思いの言語で祈るだろう。そして、祈りが叶う。これはつまり、究極的に、言語の違いなど、祈りには関係ないということである。

では、いったい、何が届いているのだろう? 言葉をめぐる思索は果てしなく続く。