高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

遠藤周作『沈黙』をめぐって――文学と宗教のことなど

この作品には、思い出が二つある。時系列で言うと逆になるが、どうしてもこの順番で書かなくてはならない。

ひとつは、学部、大学院の指導教官の話。この方は、それなりに名の通った研究者であり批評家でもあって、全盛期の頃は多くの文学者と交流があった。私たちはその話を聞くのが楽しみだった。保田與重郎三島由紀夫中上健次開高健江藤淳佐伯彰一村松剛篠田一士、日沼倫太郎……その他にもたくさんあった。

私はそのなかで、批評家として篠田一士と日沼倫太郎の書く物を愛し、尊敬した。それは指導教授の前では絶対に言えないことであり、おそらくこの先も言うことはないだろう。意外に嫉妬深い人でもあるから。

村松剛の妹の英子がかつて文学座の女優であったこともあり、そこから中村伸郎の「道ですれ違っても全然気づかないぐらいの小男なのに、舞台の存在感たるやすごかった」などという話を聞いたときには、胸が高鳴ったものだ。

そして、遠藤周作も、話に出て来た一人であった。それは、はっきり言えばよろしくないことであった。その教官がどこかに書いているので繰り返すことはしないけれど、端的に言えば、満座の前で酔った遠藤周作に罵倒されたというものだった。「お前に『沈黙』が書けるか」と――。

折に触れてはその話をしていたから、よほど腹に据えかねたに違いない。そのため、私は、『沈黙』を読んだ時の衝撃を言うことが出来なかった。この先も言わないだろう。容貌に似合わず嫉妬深い人であるから。

私が『沈黙』を読んだのは、そこから遡ること四、五年前、学部生のときだった。私はキリスト教徒ではないが、文学は、宗教性のあるものこそ最高である、というある種揺るぎない信念があって、そんなときに、たまたま『沈黙』を読んだのである。

話としてはわりと単純で、キリシタン禁制の日本に来たポルトガル司祭ロドリゴが、日本人信徒に加えられる拷問や殉教に耐えかねて、ついには信仰を捨てる、というものだ。主よ、あなたはなぜ、あなたのためにこれだけの者たちが死んでいっているというのに、沈黙を貫いているのか――それが主旋律だ。

当時の私は、はたして自分が同じ状況に置かれたらどうしよう、と、真面目に考えた。自分に加えられた拷問なら耐えられそうだが、愛する人が加えられているのを黙って自分は見ていられるだろうか、しかもそこに救いがなかったとしたら、など、けっこう長い間、考えたものである。

しかし、今、私の立場で言うならば、このロドリゴの背教には、どこか屈折した、自己都合の的な言い訳があるような気がする。物語の最後の方で「自分は彼等(注、聖職者たち)を裏切ってもあの人(注、神)を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している」とロドリゴは思う。しかし、こう言ってはにべもないが、所詮、それだけなのである。

私は原理主義者ではないが、しかし信仰は厳格なものである。殉教をも辞さないならば潔く殉教するべきであって、そもそも、「殉教」という言葉に多義性があるわけがない。「法」とか「愛」といった言葉とは違うのである。そういう意味で、この作品においては、あいまいな日本語を操る、ぶざまな日本人信者の方がよほど純粋な信仰者である。

もし、その宗教を、命をかけて信じ、守るなら、目の前で愛する人が殺されても、眉一つ動かさずに凝視できるような人間、それこそが真の信仰者なのだろうが、だからこそドストエフスキーは、あの『カラマーゾフの兄弟』のなかで最も有名な「大審問官」のエピソードを書いたのだろう。文学と宗教をめぐる問題は古今東西変わらないのである。

理想論かもしれないが、神なるものが「沈黙」しようが饒舌であろうが関係なく信じるのが本物の宗教であって、結局、信仰とはどこまでいっても己の心の問題である、ということになる。遠藤周作は、私から言わせれば、信仰心のない「人間」ロドリゴを屈折したかたちで肯定している、ということだ。

ところで、日本の文学者の場合、宮沢賢治などを除いて、無神論者の書くものの方が、よほど宗教者らしい場合がある。志賀直哉小林秀雄は、優れて宗教的な感受性の持ち主だった。また、キリシタンということで言えば、かつて彼らが、厳しい拷問には耐えたのに、めしを減らされたらあっさり棄教したというエピソードにいたく感動し、それについて書いた、無神論者の坂口安吾に、私は宗教性を感じるが、はたしていかがなものか。