高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

日記より(トルーマン・カポーティ『冷血』の原作と映画のことなど)

10月×日 カポーティの『冷血』。昨日、電車で読み始め、早く続きが読みたくて、朝起きたときも真っ先にこれが読みたいと思い、とうとう一気に読み終えた。いやすばらしい。ノンフィクション・ノベルの傑作。とくに、犯人のペリーとディックの造型がすばらしい。なによりその筆力。いや、ショック。間違いなく自分にとって大切な一冊になった。これでカポーティ好きは決定的になった。ほんと、アメリカという国がよく出た作品。個人じゃない。そう考えると、アメリカ文学って、究極はみな「アメリカ」という国を書こうとしている気がする。ヨーロッパ文学ではそうはならない。日本もそうはならない。なぜ?アメリカは、歴史が浅いから?

 

11月×日 カポーティのいわゆる繊細な作品より、『冷血』の方がすごいと思うことの矛盾。『冷血』は、他者を借りて自己を表現している。そして、得体の知れない熱意。伝記にあった、彼の教養のなさ、底の無さ(それはたとえば哲学や宗教のように文学以外のものである)が晩年の彼を苦しめたというのは、私にとってもすごく大きなことだった。その通りだと思う。つまりカポーティは本質的には抒情詩人なのであって、小説というのは、何かしら、その底に哲学的なものがなければならないのである。

 

12月×日 小説というのは、自分を解放するもの、あるいは自分を見出すものではないのか。当然といえば当然なのかもしれないが、たぶん私は今までそれを実感したことがなかった。私が文学の中で一番愛着がなかったのが小説で、ずっと批評を愛していたのは、そこに思考はあっても肉体がなかったからである。ミステリもそうだ。小説には、生きている人間そのものがいるわけで、そこで何かを感じ、行動し、呼吸をしている。そして私は、そこに自分を見出したことがない。

それで文学をやっているなんてよくも言えたもんだよ。しかし逆に、それでよくここまでやってきたかとも思う。自分のなかで抑圧していたのだ、「肉体」というものを。私がデュラスやウルフやカポーティに強く惹かれたのは、何のことはない、そこに自分を見出したからだ。小説というのは何と素晴らしいものなのだろう。無限の海に飛びこめるようなものだ。批評は思考あるいはそのプロセスで、今ここに生き、呼吸をしている私はいない。

では「詩」は?一言でいえば心情。

生命を考えたとき、あるいは、思考でも心情でもない自分というのを考えたとき、見出すことのできるのは小説しかない(私が心理学に興味を持たないのも、思えばそこに肉体がなかったからだった)。それにしても背筋が寒くなるのは、私が日本の小説に自分を見出したことがないこと、ついでに言えば、オースティンのようなワクワクする楽しさも味わったことがないということである。結局残るのは、「日本語」ということに尽きる。私はとどのつまり、母語である日本語を愛しているだけなのか。わからない

 

12月×日 『冷血』。映画としてはよく出来た方だと思う。しかし原作を支え、作品世界を統一しているのがカポーティの奇妙な情熱であり、それが一番の魅力なわけだが、当然、映画ではそれが表現し得ない。むしろそれは『カポーティ』で描かれていた(フィリップ・シーモア・ホフマンのすごさ!)。こちらのほうが『冷血』らしく、したがって映画の『冷血』はそこが限界だと思う。

それにしてもあの舞台がカンザスシティだったとはね。アメリカにおける、田舎の代名詞。そして、教育を受けていないことというのがどういうことなのかをまざまざと見せつけられる。私の、差別やアンダーグラウンドな世界への関心もそことつながっている。『俺たちに明日はない』もそうだったけど、行動が場当たり的になるのだ。いろいろ思考は広がる。