オルコットの『若草物語』、モンゴメリ『赤毛のアン』、そして、ウェブスターの『あしながおじさん』。こういった物語が、日本にはない。そう、少女時代に、誰もが通過儀礼として読むような文学が。私はそれを、非常に不幸なことだと感じている者である。
そんな自分の人生について思いを巡らすと、何かがごっそり欠落している、と思う。
私は、『あしながおじさん』が好きだった。この作品を初めて読んだのは、小学校の4年生ぐらいではなかったかと思う。
当時、仙台駅前には協同書店という本屋があった。バスターミナルから、県北の田舎にある祖父母の家に行く前の待ち時間に、そこで母に買ってもらったのだった。
その日は雨で、本屋の、あの独特の紙の匂いが、湿気のせいなのかいつもよりも強く感じたことを覚えている。
それ以来、『あしながおじさん』は、住む場所を何度変えても私のそばにあり、今も書棚にあり、時々読み返したりする。
『あしながおじさん』は、まず、私に、未知の外国の文化や暮らしを教えてくれた本だった。
アメリカの大学というものが秋に始まること、夏休みには、農場に行くことを知った。バラの花束やチョコレートを贈る習慣、マシュー・アーノルドや、サッカレーなどの名前もこの時に知った。子ども向けに書かれた注さえ楽しかった。
たとえばこんな感じである。平仮名が多いのは原文のままである。
おじ様はなぜ私が少しばかり気晴らししようとするのを、そんなにむきになって反対なさるのでしょう? 夏じゅう働いたんですもの、二週間ぐらい遊ぶのは当然だと思いますわ。おじ様はまるであのいじわる犬(イソップの中にある話から出たことばで、自分に使えない物を他人にも利用させない人のこと)みたいでいらっしゃいますわね。
この作品が今でも読まれているのは、紛れもなく、主人公ジュディの好奇心と、鋭い観察眼と、ユーモアと、表現力のためであるのはもちろんだが、古今東西の文学少女のため(だけ)に用意されたシンデレラストーリーであることがいちばん大きい。
ところで、私はまあ本が好きな方ではあったが、はたして文学少女だったのか、と問われれば、答えに窮す。
それは今の私が年を重ねたから、というわけでなく、そもそも私に少女時代というものがあったかどうかさえ、疑わしいのである。
少女の時に、自分を少女だと自覚する者はいない。成熟してはじめて少女時代を認識する。それが、今日現在まで、ないのである。
私は髪を伸ばしたことがなかった。私は三つ編みができない。恐らく永久にできないだろう。それからスカートが嫌いだった。女の子らしい遊び、たとえばゴム飛びとか、そんなことをする機会もなかった。
だからと言って、自分の性を受け入れられなかったわけではない。「少年」という言葉には、はっきりと違和感がある。
だがそれでも、「少女」となると、私はにわかに不安になるのである。
そして、それが、『あしながおじさん』への愛着と、無関係ではないような気もする。
そう思うと、この本も、我が身も、何やら不気味なものに転じてしまう。
私は、自分に少女時代があったのかどうかはわからないが、少女の気持ちはよくわかる。だが、それは、わかるというだけで、どこか他人事である。
脈絡もなく、思考は音楽へ飛ぶ。原由子(大好きなミュージシャンだ)に、「少女時代」という歌がある。そのものずばりである。よほどの自信がなければ、このようなタイトルはつけないだろう。実際、いつの時代にも通用するようなすばらしい歌で、私はこの世界がわかる。しかし、どこか自信がない。
私のなかに子どもはいる。だが、少女は、今もどこにいるのかわからない。