高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

樋口一葉『たけくらべ』

完璧な文学作品というのはそうそうあるものではないが、樋口一葉の『たけくらべ』は、紛れもなく完璧な文学作品である。

今さらこの作品に私ごときが何を付け加えることがあるだろうとも思うが、間違いなく日本近代文学の財産であるこの『たけくらべ』の感想をいくつか書き留めておくのも、あながち無駄ではあるまい。

これは、まったく、日本語そのものの美しさを味わうためにあるような文学である。
 
廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田樂みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、
 
第一段が実に一文で形成されていることを知ったとき、人はきっと驚くだろう。同じ擬古文体にくくられている森鷗外舞姫』の冒頭部分、「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。」と比較すると、その違いがよくわかる。

鷗外のものは、一文が簡潔で短い。そしてこれが重要なのだが、鷗外の文は、紛れもなく外国語への翻訳が可能な文章なのである。日本文学者と近代というものを考えたとき、やはり鷗外と漱石は本場仕込みなだけがある、真の意味で近代をくぐりぬけた作家なので、とくに鷗外に関しては、口語で書かれた散文も、間違いなく古典と新しい言語との格闘の末に生まれた、真の近代的な口語となっている。それはそのまま『舞姫』にも当てはまるので、あくまで近代をくぐりぬけたうえでの擬古文なのだ。

その鷗外が絶賛したのが一葉の『たけくらべ』というのも、何か因縁めいてさえいる。一葉の文章は、鷗外とは似ても似つかぬ、前時代の最後の花火のようなものであった。これは翻訳不可能である。たとえしたとしても、この大音寺界隈のめくるめくような世界を表現できるかと言ったら、疑問である。

私の引用した部分、あえて最後を「をかし」にしてみたが、これは平安文学からのあまりにも王道な表現であって、事実、一葉を最後に、「をかし」という日本の美意識は、言語の上でも消滅した。一葉は、会話のみ口語にしたが(当たり前だが、だから擬古文なのである)、カギカッコは使わなかった。

だからこそ、これは古典の香りがした。カギカッコで息をつく読み方は、どこか近代である。一葉は『たけくらべ』を書いて間もなく24歳の若さでこの世を去るが、その消えんとする生命の火は、息をつくことさえ生ぬるいと言わんばかりの激しさであったのだろうか。本当に、カギカッコがあったらこの作品は台無しである。

たけくらべ』のロマンティシズムについては、もはや何も言うまい。遊女屋の子である美登利と、寺の息子の信如は絶対に結ばれることはない。美登利はいずれ、敵対する長吉にさえ買われる身である。その残酷さが剥き出しになるかならないかの絶妙のところで、つまり、子どものままでいられる最後の煌めいた時代をとどめる形で、樋口一葉は『たけくらべ』を永遠の少年少女の物語に閉じ込めた。
 
龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出る風説をも美登利は絶えて聞かざりき、有し意地をば其まゝに封じ込めて、此處しばらくの怪しの現象に我れを我れとも思はれず、唯何事も恥かしうのみ有けるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懷かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに傳へ聞く其明けの日は信如が何がしの學林に袖の色かへぬべき當日なりしとぞ。
 
小説や物語と言うのは得てして、書き出しの部分は印象に残るものが多い反面、結末まで美しいものとなると、その数は圧倒的に減る。書き出しと結末の結構だけでも、この作品が完璧であることの、些細な証明の一つではある。そして、くすんだ世界に友禅の端切れ、造花の水仙、その色彩の鮮やかさも、印象的である。これに匹敵する色彩感覚が鮮やかな小説は、梶井基次郎の『檸檬』ぐらいであろうか、などと、脈絡もなく考えてみる。

樋口一葉は、たとえ長生きをしたとしても、言文一致体で表現することは不可能だっただろう。私たちは、その死を、早すぎると悼む必要はない。それは、日本文学史にもたらした輝かしい栄光である。