高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

表現ということ②

※①からのつづき

 

井伏鱒二の「本日休診」に、次のような箇所がある。

 

開業一周年の記念日には、「本日休診」の札をかけ、八春先生が留守番で、ほかのものはみんな遊山に出ることにした。伍助院長、内科主任の老医宇田恭平さん、看護婦の滝さん、お須磨さん、婆やのお京さん。この五人が、八春先生のゐる前で、滝さん所有にかかる「東京近郊遊覧案内」といふ古ぼけた地図をひろげ、明日はどこに行かうかと相談した。伍助院長は、十国峠の野桜を見て箱根から三島にまはつて帰る案を出した。誰も賛成しないので、お京婆さんが熱海でゆつくりお湯にはひつて来る案を出した。伍助院長が「熱海なんかで停滞するのは、通俗だ。僕は絶対に不賛成だ」と云ひきつたが、ほかのものはお京婆さんの案に賛成した。みんなが実質的な休養を欲してゐるのは当然である。そこで、八春先生が採決を与へるために、「愉快なことは、通俗的であつた方が、寧ろ多感をそそる場合が多いだらう。これは僕の経験からして云ふことだ」と云つた。伍助院長も熱海行に賛成した。その夜、八春先生は病院に泊つた。翌朝、まだ暗いうちに伍助院長と婆やを送り出すと、ほつとして、今日は一日ぢゆう眠つてやらうかと思つた。朝刊がまだ来ないので、前夜の夕刊を持つてまた寝床に入つた。すると、呼鈴の鳴る音がした。「本日休診」の札が軒燈の明りで目につかない筈はない。呼鈴の音は、鳴り止むとまた鳴り出して、間を置いてまた鳴つた。朝帰りの与太者のいたづらにしては、あつさりしたところに欠けてゐる。

 

読むたびに感心する。基本はリアリズム風の文章でありながら、どこかおかしい。まず登場人物のセリフである。これは明らかにリアリズムではない。「所有にかかる」「実質的」「採決」といった言葉も、およそ小説には似つかわしくないものである。そしてきわめつけは最後の一文だ。「朝帰りの与太者のいたづら」ならばあっさりしているというのは、いったいどういうわけなのかと思いつつ、同時に「わかる、わかる」という気持ちにさせられるのだから不思議である。

つまり、これは、「小説」の言語なのである。こんな時は、ただ純粋に、読むことの楽しさだけがある。リアルであってリアルでない、その境界がひらけてくる。「小説」が「小説」として生命を持ち始める瞬間、とでも言ったらよいだろうか。

小林秀雄井伏鱒二について、「尋常な言葉に内在する力をよく見抜き、その組合せに工夫すれば、何が得られるかをよく知っている」と言った通り、言葉は、それ単体で見るならばその辺に転がっている石ころにも満たない。しかし、誰かがそれを拾い、用い始めたその時から、その言葉は他の何にも替えがたいものになる。それはやがて文になり、「小説」になる。ひとつひとつの言葉が有機的にはたらき、やがて統一体を成した時、はじめてその作品はひとつの生命体になる。たったひとつの言葉も、その時その場所にしか存在し得ない言葉になる。まるでそれは人体のようであり、宇宙にも等しい。

話は変わって、Kという名の女子生徒、この生徒は以前書いた「言葉について」という小さなエッセイに登場してもらった「口数の少ない」生徒なのだけれど、彼女は文芸部に所属していて、つい先日、何やらあらたまった様子で職員室を訪ねて来た。そして、部誌が完成したから読んでほしいというような意味のことを、いつにもましてたどたどしい口調で言い、手渡そうとするので、こちらもつられて粛然とした気持ちになり、しかと受け取った。

そのなかに、東日本大震災を詠んだ短歌があった。彼女が短歌をやることは聞いていたが、実際に眼にしたのは初めてだった。

 

はらはらと紙のようにただ千切られた命(思い)は乾いた雪となって

 

その刹那、ああ、これは、「歌」だ、と思った。

あの日、地面は激しく揺れ、やがて静寂が訪れた。すべての灯りは消え、そのうち日が暮れ始め、空からは雪が降って来た。こんなことはほとんど報道もされていない。東京にいた私はそれを、仙台に住む家族から聞いた。震災当初はまだ混乱の極みだったし、現実的に物事を処理するので精いっぱいだったが、後々になって身内の誰もが口にしたのは、なぜかその雪のことなのだった。

それは、ある特定の場所、特定の時に生きていた者だけが知り得ることである。Kの短歌から、たまたま私は、その話を思い出したのかもしれない。しかしそれ以上に、「歌」だと思ったのだった。

私は、短歌のことはよくわからない。いわんや和歌においてをや、である。これまで、それこそ万葉集から現代短歌に至るまで、それなりに読んでは来たつもりだが、「和歌」とか「短歌」とかいった言葉がはらむ重さを取りはらって、つまり先入観を持たずに向き合っていたかといえば、正直なところ、自信はない。私は不意を突かれた。

だからこそ感覚的に、「歌」というものを了解したのだった。震災を詠んだものでありながら、それはどこか震災を超えていた。むごたらしい出来事は、静かな、美しいものに転化され、個人的な悲しみは、生き死にそのものが持つせつなさへと変わっていた。

あの日の出来事は、直接経験した者、あるいは見聞きした者のぶんだけ語られる言葉があるのだろうが、この詠み手にとって、それはひとえに「紙のようにただ千切られた」雪であり、そして「命」は何よりも「思い」なのであった。

そもそも、生きとし生けるものの「生」それ自体が、雪のようなもの、散りゆく花びらのようなものなのかもしれない。はかない、だがたしかに勁(つよ)い。存在は絶え間なく変化し続ける。それは連続していながら、すべて刹那の断片である。その瞬間は、二度と戻らない。戻らないということを感じた時、そして眼の前にあるものも、我が身さえもがいずれは死にゆく存在であるということを自覚した時、いっそうそれをつかみたい、自分のものにしたい、という切なる願いと、愛しさ、憎しみ、喜び、悲しみ、ありとあらゆる乱れた感情が入り混じり、涙となって流れる。時にはその荒々しさ、狂暴さに愕然とする。

自分がこのような時に望むものを、手に入れられないことはよくわかっている。近づけば近づくほど、対象は他者としての相貌をあらわにし、こちらを拒絶する。それはもはや恋なのではないかとさえ思う。決して英語のloveではない、日本人の感受性が伝えてきた、「恋ふ」心。万葉の人びとは、それを「孤悲」と詠んだ。

佐藤春夫は「ほんの瞬間的に通り過ぎるあの、悲愁と一体になつてゐるほどにまで深い喜悦、両極を一ときに具備してゐる感激、その一瞬こそ宇宙と永久に繋がつてゐるかと感ずるまでのその真実の閃光をどうかして永続的なものにしたい」と言った。その物狂おしさが、表現という行為の根幹を成しているような気がする。

私がつかまえたいのは、表現されるべき「何か」なのであって、それは結局、存在そのもの、生命そのものということになるのかもしれない。外形だけでも中身だけでもない。それらをひっくるめた全体でもない。それはおそらく、今、ここに在る、生のすべてである。そのすべてはやがて死ぬ。それだけが真実である。