高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

日本語の二者関係性

先日、某大学の授業で、太宰治の「桜桃」(傑作)の冒頭部分、とくに使用されている人称の多様性の話から、つい、自分が長年考えてきた、日本語の特性について、しゃべってしまった。それは、すなわち、こういうことである。

日本語は、究極、二者関係に収斂される言語ではないか。そしてその二者の根底には、われと天皇の関係があるのではないか。そして、古来より、日本人は、和歌の贈答で、それを磨いてきたのではないか。私とあなた。これに執着するのが、日本語なのではないか、と。

わたしは、近代の作家において、太宰治が、その日本語の特性を最もよく理解していたと思っている。あの、読者である自分にだけ秘密を打ち明けてくれるような小説世界。これは、日本文学からは決してなくならないであろう、私小説の根幹にも触れる問題である。そして、二者関係の愛憎を描いた、これまた傑作の「駈込み訴へ」。なお、村上春樹の文学にも、そういうところがある。熱烈な読者を持つ作家の文学言語は、どれも、私とあなたの関係で結ばれているのではないか。

私にしかわからない。私だけが知っている。腹を割って話してくれた。秘密の共有。それに代表されるのが、和歌である。あのすさまじい修辞技法の数々も、すべて、あなたにだけわかってほしい、あなたならわかってくれる、そんな思いから出来上がったような気がしてならない。

わたしは、詩を書く。そのとき、無意識に想定している読者はいつもひとりだ。わたしのなかのもうひとりのわたしであるときもあれば、大切な誰かのときもある。あるいは、いま、さみしい思いをしているひと。ひとりぼっちのひと。必死になって生きようとしているひと。ひとりに、届けばいい。そう願って、祈るような思いで書いている。

はっきり言えば、このブログの文章だってそうなのだ。わたしは、いつだって、あなたのために書く。書いている。だって、わたしは、あなたのために、存在しているのだから。

そんな感じで、日本語の研究をしたかったが、恐らく、生きているあいだに、完成することはないだろう。何せ、日本語は、底なし沼なのだ。仕方がないから、わたしは、この日本語と、心中するつもりで書いている。これからも書く。

 

付記。そんなわけで、日本語及び日本文学の極意は、恋と涙なんじゃないかなと勝手に思っております。