高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

思い出すことなどーーメモのような幼少期の記憶

ガストン•バシュラールではないけれど、あるいは、三つ子の魂百まで、ではないけれど、幼少期の記憶というものは、やはりそのひとの一生を決定してしまうもののようである。それについて、いつか、まとまったものを書くことがわたしにもあるかもしれないと思うようになった。最近、大学の授業で、太宰治の「思ひ出」を扱ったことも大きい。太宰の自伝的な作品のなかでは、珍しく気負いや衒いがない、素直な美しい作品である。

学生には、文学とは自己を掘り下げることなんだと言ってしまった。そこで、わたしも、メモ風に、幼少期について思いつくままに書いてみることにする。

真っ先に浮かぶのは、部屋の片隅で震えている三人のきょうだいである。長女のわたしの後ろには、三歳下の妹、五歳下の弟がいる。この三人は、息をすることも忘れているようだ。父は、酒を飲んで荒れ狂っている。母を罵っている。その母は不在だ。父の仕打ちに耐えかねて出て行ったのである。これがわたしたち家族の日常だった。

わたしだって、怖かったのである。でも、妹、弟を守らないわけにはいかなかった。わたしがいまでも年下や若いひと、こどもに対しては無限に愛情を注ぐのに、たとえ一歳でも年上だと刃のように冷たいのはこういう生い立ちのおかげだと思っている。わたしには、信頼できる大人がいなかった。後年、それは少し和らいだけれど、わたしはいまでも、年長者との関係をうまく築くことができない。

また、わたしは学校ではいつもひとりぼっちだった。心の支えは、図書室にあった子ども向けの江戸川乱歩の作品だった。全巻、読破した。わたしは探偵になりたかった。少年探偵団を真似た。庭にはいつでも脱出できるようにお金を埋めた。リュックには懐中電灯やビスケットを詰めた。「エルマーのぼうけん」も、わたしを熱狂させた。

つまり、わたしは、どこかへ行きたかったのである。日常から逃げ出したかったのである。あの頃を思い出すと、いつも寒く、わたしは曇天に押し潰されるような日々を生きていた。いまでもわたしは、どこか遠くへ行きたい。家にいるのに、家に帰りたいと思う。それはもちろん、仙台の実家ではない。

居場所は、いつも、自分の足元にしかないのであった。わたしはこれからどこへ行くのだろう。どこでこの荷物を下ろすことができるのだろう。いつになったら、安心できるのだろう。わからない。わからないから、生きるしかないのである。

最後に、大好きな坂口安吾の言葉を。「不良少年とキリスト」から。

然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。