高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

さみしさについて

さみしい、という感情を抑圧するようになったのは、いつ頃からだっただろう。

それは、母に自分を見てもらいたいという気持ちと、密接につながっていたような気がする。母は、子どもたちに関心がなかった。いつも自分の興味を追いかけていた(最近、わたしはこの血をなみなみと受け継いでいることに気づいた)。

母は、父の執拗な暴力から逃れるために、たびたび家を出た。それについて、さみしいなどとは言っていられなかった。わたしは長女だった。母を困らせて、本当に捨てられたらどうしようーーそれは死を意味していた。

そんなわたしが、さみしいという感情をコントロールできなくなったのは、少し大人になって、恋愛をするようになってからだ。相手と少しでも離れていることが耐えられなかった。もし向こうが、帰省などでもしようものなら、子どものように泣き叫んで暴れた。幼い頃にできなかったことを、やった。

そんな恋愛がうまくいくわけもなく、いくつもの別れを経験した。わたしは年を取り、暴れる元気はもはやなく、残ったのは静かなあきらめだった。さみしいという感情は、わたしのなかから消えてなくなったかに見えた。一度、死んだのかもしれない。

ところが最近になって、さみしいという感情が、生き生きとよみがえる出来事があった。それは恋人ではなかったが、自分が心を許している数少ない一人のひとの旅立ちだった。それはさみしいことではあったが、同時に喜ばしいことでもあった。もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。だが、それは、大切な別れだった。なぜか、生きよう、と思った。

帰り道、電車のなかで、泣くのを必死になって堪えた。さみしさで全身が潰れそうだった。それなのに、わたしの血はあたたかかった。わたしのなかの、さみしいという感情は、ちゃんと残っていた。心は、あった。

つまり、わたしは、紛れもなく、生きていたのである。