高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

書くことと傷つけること

また、急に、書きたくなったので。

わたしは、本質的に他人に興味がなく、だからこそ、まさに人間を描くと言える小説を書くことができない。書きたいという欲求を抱いたこともほとんどない。もし書くとしたら、坂口安吾の「桜の森の満開の下」のような救いようのない物語をひとつ。それから、芥川龍之介の「或阿呆の一生」みたいな詩的な自伝をひとつ、と決めている。

他人に関心がない、というか、人間を風景でしかとらえられない者がよく教員をやっていると思うが、わたしは、とにかく、努力した。少なくとも、教育を性格の一部にするぐらいまでは、努力したと思う。そのプロセスは、言いたくもなければ書きたくもない。あまりにも苦しすぎる。

きのう、あるひとのnoteを読んだ。まだ若いひとだ。そこにある言葉は、紛れもなく、自分を傷つけながら書いたものだった。粉々になったガラスの破片を、ひとつひとつ、血まみれになりながら拾い上げているような、そんな言葉たちだった。他人に興味がないはずのわたしは、思わず、「破片(かけら)」という詩を書いてしまった。書かずにはいられなかったのである。

https://note.com/takayamakyoko/n/nd595678575cc

ものを書くという行為は、決して綺麗事ではなく、ときには誰かを傷つけるものである。日本の伝統的な私小説、自らを書くことに取り憑かれた作家たちは、いったい、どれだけの人間を傷つけただろうか。犠牲にしただろうか。もの書きは、業が深い。

わたしは、こうした作家を、全面的には決して肯定しない。しかし、全方位にいい顔をして、誰も傷つかないように立ち回ろうとする者、あるいは、傷にもならないほど無害な者が書いたものは、一歩も譲らず、認めない。文学は、そんな生易しいものではない。

自分を犠牲にして書いたもの、自分を傷つけながら書いたものを、わたしは美しいと思う。それらはどれも痛々しい。読んでいて、つらくなることだってある。しかし、書かずにはいられない、あるいはいられなかった、その情熱だけは、必ず誰かに届く。たったひとりを救う。そう信じている。それは祈りにも通じる。人間の行為のなかで最も美しいもの、それは純粋な祈りである。