高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

言葉の快楽④ ちょっと脇道に逸れて、自分の性のことなど

言葉と快楽についての不定期連載。って、誰も読んでいないかもしれないが、今回は、なぜ私がこういう問題に関心を持ち続けて来たのか、それを考えてみようと思う。話が脇道に逸れるようだけれど、ちゃんとつながっている(はずである)。

それは結局、「性」というものへの関心なのである。たんなる好奇心を超えて、ときにはおどろおどろしいものとして、私にまとわりついて来る、性というもの。これは自分のアイデンティティにも関係してくる。私はノンバイナリーでバイセクシュアルであることを公表しているが、この、性におけるアイデンティティの曖昧さは、いつも私を不安にさせる。させて来た。

私の両親は仲が悪かった。母はよく家を出て行った。家の中ではいつも不安と恐怖に慄いていた。そのせいか、物心ついたときから寝つきの悪い子どもだった。その昔。夜中。私は両親がしているのを見た。何度も何度も見た。それは、とてつもない恐怖だった。今でも思い出すといやな気持ちになる。息を止め、気配を消した。私ははまだ子どもだった。母が父にねじ伏せられている。乱暴されている。それなのになぜか、母は喜んでいるみたいだった。押し殺したような父の声。小刻みに動く布団。この体験は、わたしの性に少なからず影響を及ぼしている。

恐怖とともに刻まれたセックスという得体の知れない行為に、私は異常なまでに惹きつけられてしまった。それは持ち前の好奇心から来るものでもあったのだろうか。私は風邪で小学校を欠席するたびに、こそ泥のごとく家捜しをした。あの秘密の行為につながる何かを見つけたかった。母の箪笥に隠されていた伏字だらけの大量の官能小説。わからないながらに読破した。避妊具も見つけた。

もうひとつの幼少体験。酔っ払った父は笑いながら言った。男なら、私より妹の方がいいな。幼稚園か、あるいは小学校の低学年だっただろうか。私はすでに女として失格の烙印を押されていた。また父は、私が髪を伸ばすことを禁じた。おまえには似合わないから。長い髪が嫌いだから。父は、とにかく怖かった。私は自分の性がわからない。

自分の性がわからないということは、とどのつまり、自分が何ものかわからないということだ。男でも女でもない私、高山京子という生き物は、早いうちに好奇心だけでセックスをした。だがそこには常に不安と恐怖がつきまとう。触れられることへの極端な嫌悪。愛情などもってのほかだった。わたしは愛や快楽を知らないまま年をとった。

己のジェンダーセクシュアリティを受け入れるのにも、すごく時間がかかった。自分と向き合う日々。今でこそ、ノンバイナリーのバイセクシュアルと認知しているけれど、それだってどこか怪しい。私は誰。そもそも本当に生きて存在しているのか? 性に関して、私はいつも不安である。そして怖い。そのくせ、それを完全に拒むことはできない。なぜなら私も人間という生き物、そしてケダモノの一員だからである。

最後に。いまの恋人は、私を理解しようといつも努めてくれる。きちんと正面から向き合ってくれる。保護犬や保護猫を相手にするように、根気強く私に接してくれるひとだ。もしこの世に愛情というものがあるのなら、このひとが示してくれているものなのだろう、とさえ思う。それは安心と信頼に貫かれている。私がいちばん知らなかったもの。

私は、変われるのだろうか。変わりたいと思っている。人間でありながら、人間でない何かになりたがり、人間を拒絶して来たこんな自分でも、幸せになりたいと真面目に思っている。その幸せの正体は、まだわからないけれど。