高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

なぜ、文学なのかーー思いつくままに、自己紹介的な

このブログの投稿記事も、110回を超え、訪れてくださる方々も、だんだん増えてきました。ありがたいとしか言いようがありません。いつも、本当にありがとうございます。読んでくださる方が一人でもいるだけで、私は幸せです。きょうは、自己紹介を兼ねて、私がなぜ文学をやっているのか(ものを書くのか)、思いつくままに書いてみようと思います。

 

大学生の頃、私はある同級生の女の子と付き合っていました。同性と恋愛をするのは、初めてではありませんでした。ところが3年生になって間もない春、その子に男性の恋人が出来ました。私は、突然別れを告げられました。

大学には行けなくなりました。何度か自殺未遂をしました。あまつさえ、彼女に暴力を振るいました。みじめでした。まったく、地獄の日々でした。そんな生活が、半年ほども続きました。そんなときでも読んだ本、たとえば林芙美子の『浮雲』であるとか、観た映画、『さらば、わが愛/覇王別姫』は、生涯忘れることはないでしょう。

どん底にいた私を救ってくれたのは、一人の先生でした。「私は、あなたを信じます。たとえ、牢獄に行くようなことがあったとしても、私だけはあなたの味方です。どうかそのことを決して忘れないでください」。私は、少しずつ立ち上がりはじめました。ある晩、いよいよ本気で死のうとしたとき、思わず絶叫していました。「死にたくないよ」と。号泣しました。

私は、先生にこたえたいと思いました。土壇場になって出て来た、死にたくないという自分の声を信じようと思いました。私は生きたかったのです。しかも、いわゆる良き人として生きるのではなく、おぞましい部分も含めて、自分の全てを使って生きたかった。性的マイノリティであることも、自分のなかにある暴力性も、潜在的な自殺願望も、全部全部活かして生きるには、文学しかなかったのです。

大学に復帰し、ゼミの指導教官から大学院への進学を勧められ、そのまま、文学研究の道に入りました。書くことに生きる道を見出したのもこの頃です。自分のなかで転換点となった林芙美子の研究で博士号を取り、そのまま助教として3年間、大学に勤務しました。任期を終え、ポストに恵まれなかったため、高校の教員になりました。

ここからはまた別の苦しみが始まりました。私の勤める学校は、どれも教育困難校と呼ばれる底辺校ばかりで、博士号など何の役にも立ちませんでした。研究をする時間も取ることが出来ませんでした。私はこの13年間で、実にさまざまな子どもたちと出会いました。生半可な文学よりも文学的な子たちと過ごしたことは、ともすれば本のなかに閉じこもりがちだった自分の世界を、現実の生きたものに変えてくれたと今では思います。

しかし、研究をやれなかったこと、つまり文学と向き合うことがなかなかできなかったことは、思ったよりも心身を苛んでいたようです。私は病気になりました。それでも私は、文学を諦められませんでした。寝たきりのまま、今度は詩を書き始めました。投稿したら思いがけなく詩誌にも掲載されるようになり、私の世界は思いがけない形で開かれました。大学の非常勤講師の口も決まり、原稿の依頼も少しずつ来るようになり、現在に至ります。

私は、死なないために文学を始めました。その後、生きるために文学をするようになりました。今は、生きることは文学をすること、つまり書くことです。いつか私の文学は、生きることに追い越されるのでしょうか。それはまだ、わかりません。それでも私は、詩を、文章を書くことを、やめないと思います。