高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

誰かを愛するということ

ただ、われわれは、めいめいが、めいめいの人生を、せい一ぱいに生きること、それをもって自らだけの真実を悲しく誇り、いたわらねばならないだけだ。問題は、ただ一つ、みずからの真実とは何か、という基本的なことだけだろう。(中略)人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。(坂口安吾恋愛論」)

最近、ひとを、誰かを愛するということについて、思うこと、考えることが多くなった。もっとも、何かこう、体系的に考える力はわたしには欠けているので、つらつらと、断片的に浮かんでくるだけである。それをきょうは書いてみようと思うのである。

まず、確信を持って言えるのは、ひとが誰かを本気で、いのちを賭けて愛するのは、実はみんな生涯でたったひとりなのではないかということである。それが実るか実らないかは二の次である。恋愛はエネルギーを要する。毎回毎回本気では、冗談でなく死んでしまうであろう。人間として、生活が成り立たない。だが、ひとを愛するということは、どういうかたちであれ、素晴らしいことである。

愛することには、喜びだけがあるわけではない。ときにはむしろ苦しみの方が大きいとさえ言える。自分の苦しみのほかに、相手の苦しみを引き受けることでもある。それがなければ愛ではない。

恋愛に限らず、自分だけが苦しんでいる、自分はいちばん苦しんでいる、といったある種の被害者意識は、はっきり言って何にももたらさない。安っぽい悲劇のヒーロー、ヒロインは、村の公民館の演芸大会だけでじゅうぶん。相手の方が苦しんでいる、あるいは、自分よりももっと苦しんでいるひとがいる、ということに思い至ったとき、世界は一気に広がりを見せる。苦しんでいるひとに手を差し伸べること、大切に思うことが、愛や慈悲といった、いわば宗教の原点にある。本来、ひとを愛するということは、高度に宗教的、精神的なものなのだ。

もっとも、わたしは、欲望、性愛を否定しない。自覚するか否かに関わらず、みんなこの世にひとりぼっちで生きている。そのなかで出会った二人が(便宜上、二人ということにしておく)、惹かれあい、やがて体を重ねるようになる。そこには、人間が生きることのせつなさが凝縮されているように思うのは、わたしもロマンチストが過ぎるだろうか。

恋愛はいつも、芸術の花であった。