高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

恋と涙

かねてから、日本の文学、というか文化は、恋と涙に収斂されるのではないか、と考えている。古来より、いったいどれだけの歌人が、恋と涙をうたってきたことだろう。まったく、王朝のひとたちときたら、よく涙を流す。

保田與重郎は次のように言う。

わが詩歌と暮らしでは、山川草木いづれも、情の通ふものである。肉体的であつて、さらにその上に情を相通じさせた。肉身の中の涙川は、名の如く情操のものであつて、雨も涙も共に無機質の水でなかつた。目のあたりの山川の景観さへ、「わが山河」とおのづからに口に出るところが、われわれの日常の風景観だつた。(中略)結局和泉式部の涙川について語ればすべてがすむのである。「涙川」といふありもせぬものを、現実この世の具象のものとして存在する何ものよりも、はるかな真実とリアリテイを以て示し、かつ詩歌としてこの世にのこし、千年ののちの人の心に、なほその影響を及ぼし、涙川の支配を、飛行機にのり自動車にのつてゐる今世の人間の心に振舞つてゐるのは、まことに不思議な文学の大心理家であつた。(「現代畸人傳」)

私は日本文学の専門家だが、その道に進むずっと以前、写真にのめり込んでいたころから、漠然とそうした考えを抱いていた。すべては恋と涙に尽きるのだ、と。

しばらく写真から離れていた私は、アナログからデジタルに変わって、実際にカメラを握ってみて、この空白の何年間の間に、自分の写真を撮るスタンスが変わっていることに気がついた。以前は、自分のイメージに合う現実を求めて、うろうろしていた。時には現実を捻じ曲げることさえあった。しかし、今は違う。今、眼の前に在る現実を、そのまま捉えたいと思っていたのだった。

もっとも、それはなかなかかなわず、自分が見たままに撮れることなどはほとんどない。断っておくが、それはカメラのせいでも、私の技術が未熟すぎるわけでもない。それは、恋に似ている、と思った。

繰り返すが、日本の文学は、とどのつまりは恋と涙に尽きるのではないかと思う。恋といっても、それは英語のloveではないし、一般的な恋愛のイメージでもない。あなたが語りかけてくれたその御礼に、私は、あなたの存在をとらえる。あなたの、声なき声を、拾う。そういう文化なのではないか。

ある年の二月、記録的な大雪が日本に降った日、私は仙台で、アルフォンス・ミュシャの絵を見ていた。しがない絵描きだった彼が一気に有名になったのは、伝説の女優・サラ・ベルナールの舞台のポスターを手掛けてからで、その後はもうアール・ヌーボーを代表する画家となっていくわけだが、私が書きたいのはそんなことではなく、その、ミュシャの絵をみて、それを自分のものにできない狂おしさと苛立ちに愕然としたからなのであった。見たい。聞きたい。触れたい。しかしそれは、盗んで自分のものにしたいというのとは違う。何だかよくわからない感情で、私は絵をみながら泣いているのだった。

同じようなことが他にもあった。あるひとが、自分の描いた絵を見せてくれた時のことだ。美しく色が施されたその絵に、私は、触れてみた。何でもない紙の感触である。当たり前である。しかし私はその、指先と紙がぶつかったその刹那、何か裏切られたような気がしたのだった。

手に入れられないことはよくわかっている。近づけば近づくほど、対象は他者としての相貌をあらわにし、こちらを拒絶する。その、決してひとつになることができない苦しみ、せつなさ、それが恋なのではないかと思う。サラ・ベルナールは、伝説の女優だった。彼女がレストランでメニューを読みあげただけで、その声のあまりの美しさに周囲の人々は涙を流したという。しかしその声は、永遠に聴くことは叶わない。サラの声は、今、どこにもない。ただ、そういう伝説として、言葉でしか存在していない。叶わないからこそ、私はそのサラ・ベルナールの声に恋をし続けるだろう。

対象と一体化したいという欲求は、必ずしも、肉体的な結合を意味しない。つかまえたいのは、何か、なのである。もちろん、心でもない。たとえば、みるみる色が変わっていく夕空。私はなすすべもなくただ見ている。何ひとつ、自分はできないのである。

志賀直哉の「城崎にて」の有名な一節、「生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした」という言葉には、いつも疑問を呈したい思いに駆られる。生の先に死があるように見えるけれど、実際、生と死は同時に起こっている。私がこれを書いている瞬間にも、細胞は無数に生まれ、死んでいる。その絶え間のない繰り返しを、一般的には「生」と呼ぶ。しかし、その裏には「死」が張り付いている。

と、満開の桜を見る度に思う。満開の桜の下に立った時の、あの奇妙な感覚はいったい何なのだろう。坂口安吾の「桜の森の満開の下」の山賊ではないけれど、気が狂いそうになる。一瞬が永遠で、永遠が一刹那であるような時間と、それがつくり出す空間。満開。あとは散るだけである。最も激しい「生」を現しながら、いずれ散る、すなわち「死」を同時に見せている。

先ほど記した絵を描くひと、そういえば、このひとは、静かに、美しく泣くひとで、私はその涙を何度か見たことがあるのだけれど、私は黙ってその姿を見つめながら、いつも涙とともに流れている何かを拾おうとしていた。しかしもしそれに触れたとしても、それはただの涙なのだろう。

そんなわたしは、最近、歌を詠みはじめた。