アンリ・カルティエ=ブレッソンは、私の最も好きな写真家だ。写真界における詩人として、哲学者として。
彼ほど、写真というジャンルにおいて、ほぼ完全な詩(私)的世界を確立した人はいないと思っているし、その画面の非の打ち所がない美しさは、時として敬虔な気持ちにさせられるものである。
幼い頃に絵を習い、絵に対する愛着はひとかたならぬものがあるが、学生時代にそのエネルギーのほとんど(全部、と言い切ることができたらカッコいいのだけれど、あの頃を振り返ってみても、ほとんど本を読んでいないにもかかわらず、私の心の真ん中にあるのは文学だった)を傾けた写真というのは、やっぱり特別な思い入れがある。
ここで飾られたのは、「サン・ラザール駅裏」である。あの、ひとりの男が水たまりを飛び越える写真だ。ひとつだけ言いたいのは、これが、まぎれもなく、写真だからこそ芸術になった、ということである。試しに、これを絵で描いてごらんなさい。無理ですから。
詩でなければならないもの、映画でなければできないもの、同じように、絵でなければ、写真でなければ――。
これはたぶん、私には、「その人でなければ」とほとんど同じ意味なのである。
さて、この本には、「写真をめぐるエセー」という副題が付いている。この「エセー」は、日本で言う「随筆」と考えたら大間違いで、それこそモンテーニュの「エセー」を生んだフランスの「エセー」――思考を叩き上げたところからくるものである。いわば、写真にまつわる哲学だ。
そこを貫く一本の糸と言えば、「私」という人間と、それを取り巻く「他者」との関係性である。
「肝心なのは、自分の感じとったものに対し、自分をどう位置づけるかなのだ」
「命あるからこそ、私たちは自身の内面を発見すると同時に、私たちをとりまく外の世界を見いだす。世界は私たちを形成するが、私たちも世界に働きかけることができる。内と外、そのふたつの世界の間には均衡がなければならない。絶えず会話を重ねることでふたつはひとつの世界になる。そしてそのひとつになった世界こそ私たちが伝えるべきものなのだ」
世界が、決して自己と対立するものではないと知ることは幸福である。ガンジスの流れを、ある人は地獄の業火と見、またある人は甘露の水と見る。ブレッソンは、間違いなく後者の人間だ。いや、写真というジャンルが、現実にある事物を相手にせざるを得ない以上、写真家というのは本質的に、生きとし生けるものを肯定する人たちのことである。