高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ヴィンセント・ミネリ『巴里のアメリカ人』(1951)②

つづき。

よく言われることですけど、ジーン・ケリーのダンスには憂いがない。私なりにいいかえると、「物語」がないのである。ミュージカルが嫌いな人の多くが指摘する、歌や踊りとストーリーが切断されたような感じ、ってのが、この人にはわりと顕著。これは、アステア=ロジャース映画が「ダンスを伴った物語」ではなく、「物語を伴ったダンス」と評されるのとは決定的に違う。

しかしながら、そういう、目には見えない「物語」、あるいは「情感」なんかではなく、ひたすら視覚的な美しさ、音楽的な楽しさを究めたものとしては、この『巴里のアメリカ人』はやはりひとつの頂点だと思いますよ。

やはり特筆すべきはあのあまりにも有名なラスト18分、「巴里のアメリカ人」の曲に乗ってジーン・ケリーレスリー・キャロンが踊りまくるシーン。ユトリロとかロートレックとか、その他誰もが知っているような有名な絵が次々と舞台装置になって、絵から人が飛び出して……まったく、こんな楽しい趣向はそうそうお目にかかれるものではございません。ああ幸せ。

そして何と言っても、いかにもアメリカ人なジーン・ケリーと生粋のパリジェンヌであるレスリー・キャロンの組み合わせ! レスリー・キャロン、これがデビュー作だなんてとても思えません。この人がいなかったら、はっきり言ってこの映画はここまで成功しなかったと思います。異文化交流万歳! いつだって、異質なものの組み合わせは、成功すれば1+1以上のものになるのだ。その意味では、映画の表題はもちろん、なかんずくガーシュウィンがこの曲に込めた魂を忠実に守ったんだということになります。

最後に、けっこう笑ったシーン二つ。一つ目はオスカー・レヴァント、本業はピアニスト。まったくどの映画でもコミカルな役どころで、この作品でもコメディ・パートをたった一人で担っているという偉大な彼。何なんだこの人。映画では「売れない」ピアニスト設定ですが、脳内の妄想ではオーケストラを従えてコンサート。いつのまにか、その楽団員のすべてオスカー・レヴァントになっている。何十人ものオスカーが大真面目に演奏しているのにはかなり笑った。

それからもう一つ。ジーン・ケリー、この人、胸板が厚いんですよね。まさしく鍛え抜かれたボディ。その彼が、体にぴったりとフィットしたシャツを着、キャップをかぶり、大きなカンバスを抱え、パリの町を颯爽と歩く。絵を描きに行くのです。当たり前です、画家なんですから。しかしその姿、私には運送屋のお兄さんにしか見えませんでした。