高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ジョージ・ルーカス『アメリカン・グラフィティ』(1973)

懐かしいという感情は謎に満ちている。懐かしさは、必ずしも経験とは結びつかないからである。

この映画から感じたのは、何よりも「懐かしさ」であった。しかし、私はアメリカ人でもなければ、かの国に行ったことさえないのである。してみると、結局、そこに描かれている世界ではなく、作り手の心に共振している、ということになるのだろうか。

アメリカのとある田舎町に住む4人の若者。そのうち、高校を卒業したばかりの2人は、翌日には都会の大学へと旅立つことになっている。その、夕方から翌朝までの出来事を追った、まあただそれだけの話。でも、これ、しみじみといい映画でした。

それにしても、ベトナム戦争前の、言ってみればアメリカが最もよかった時代を描いているので、まずその豊かさが目につく。高校生のくせにあんな車に乗っているなんて、まるで自分が敗戦直後の日本人になったような気分さえ味わいましたよ。

でも、本当の主役は音楽ですね。ヒットナンバーが目白押し。それは主に、地方のラジオ局のDJが視聴者のリクエストにこたえる、という形で流れる。つまり、DJはある意味ナレーターみたいな存在。若者同士のやり取りに、ラジオから流れる音楽が重なっていく。また、途中でダンスパーティーの場面があり、バンドの演奏があったりするから、音楽は最後まで途切れることなく続く。

しかも、面白いのは、この音楽の使われ方、ちょっとミュージカル的なんですよね。日常のありふれた場面や会話とセットで、彼らの秘められた心情を代弁するような歌が流れる。たとえば、女の子をナンパして「よし、ドライブに行こうぜ!」みたいなセリフの直後に、「何てったって君は最高さ~」みたいな歌詞の曲が流れる、というような仕組み。これは本当にうまいなあと思いました。

さて、主人公のカート(リチャード・ドレイファス)は、町で見かけた金髪美女に一目惚れし、必死で探すもののなかなか見つからず、しかも不良グループにつかまって一緒に悪さをする羽目になったりします。そうこうするうちに、朝はどんどん近づいてくる。

思い余ったカートはラジオ局を訪れ、かの金髪美女に向かって、これを聴いたら連絡をくれ、というメッセージとともに、(よりにもよって)プラターズの「オンリー・ユー」のリクエストを託します。ここが私はいちばん好きですね。映画は、4人の若者の物語と、ラジオの番組が並行して進んでいくのですが、終わり近くのこの場面になって、この二つがはじめてクロスするわけです。ああ、いいなあ、夢があるなあ、やっぱり映画はこうじゃなくっちゃ、と思いました。

カートは、東部の大学に進学することが決まってはいるものの、どこかでまだ迷っているし、町を出ていく実感もない。それに対してDJは、カートの背中をさりげなく押してやります。短いけど、この二人のやり取りがまたとてもよい。

親でもなく、ましてや教師でもない、人生の先輩としての「大人」との出会い、というシチュエーションには、なぜかしみじみと感動するものがあります。大人の世界をちょっとだけ垣間見せてくれるような存在。『ニュー・シネマ・パラダイス』の少年と映写技師の関係も、そんな感じだったなあ。こういう関係は、親子とか教師と学生(生徒)とか、ちょっとでも上下関係を生むようなやつではだめなのね。対等に扱ってくれる「大人」じゃないと意味がない。

さて、私は冒頭で「懐かしさ」について書きましたが、ひとつだけ、明確に自分の体験とリンクする点を挙げれば、リアルタイムで、しかも繰り返し何度も見た『スタンド・バイ・ミー』と似ている、ということでしょうか。こうしたパターンの映画の原型が、この『アメリカン・グラフィティ』なんだろうな、と思います。とにかく、よくできた映画であります。