私は、やたらとノートを作る癖があって、その量たるやもはや収拾がつかないのだが、たまたま映画用のそれをぱらぱらめくっていたら、この『泥の河』というタイトルが出て来た。
そして、すっかり忘れていたが、それを見た瞬間、「あ、これは私が観た映画の中でもベスト10に入るやつだ!」と思ったのであった(調子がいいな、おい)。
原作も好きですが、この映画はほんとにいい。
昭和31年、大阪、安治川沿い。
高度経済成長期から取り残されてしまった人たち。貧しい者が助け合って生きるというのは、美徳でも何でもなくて、そうしなければ生きていけないという当たり前の現実。
途中、何回か泣いたのですが、喜一が、「ここはお国を何百里」と歌うシーンでいちばん泣いた。いつの時代の人間だ私は。つーか、この歌、犯罪だよなあ。
印象的な場面がいくつもある。 廓舟で身体を売る加賀まりこは、厳密にいえば、登場シーンが2つしかない。信雄が初めて出会うシーンと、客に抱かれているシーン。
意識して、別世界と思わせるような美しさで撮られている。いやー、白がまぶしいです。風景との対比がすごい。
そしてどうでもいいことだが、観月ありさにちょっと似ていた。
いくつもの死。たとえば、冒頭に出てくる芦谷雁之助が馬車(これがまた何とも悲しい)にひかれる。それから、船頭が川へ落ちるシーンは結構衝撃的。映画では、船にじいさんがいるシーン→別の風景→船だけが揺れているシーン、となる。
私は、人がポコポコ簡単に死ぬ話が好きで、とくに、この『泥の河』のような世界に生きる人たちには、必死に生きているぶん、死が近いような気がします。
まあでも、ここに出ている子役たちのすごさときたら、何を書いても陳腐になります。
加賀まりこが客に抱かれているのを見て、信雄が衝撃を受けるシーンとかね。子どもは、性的なことがわからないということが、ない。なぜなのだろう、わかるのである。DNAに組み込まれているんだろうが、なんか悲しい。生き物としての悲しさというか、わびしさというか。
銀子と喜一の姉弟は絶品です。銀子はいずれ母のような道をたどるし(その変な早熟さが出ている、よくもまあこんな子どもを見つけたもんだ)、喜一は母を抱いたような男になる。背中に、刺青をして。
そうなるしかないのである。
名場面と言われる、蟹を燃やすシーン。それまで仲の良かった喜一に、はじめて、「こいつは、違う」という拒絶感を持つ信雄の演技がすごすぎる。表情と雰囲気だけで見せる。 ああいう断絶感って、すごくわかる。ほんと、眼の前が一瞬真っ暗になるんだよなあ。
作られたのは昭和56年。だから、モノクロだけど映像がいい。それが不満と言えば不満。もう少しざらざらした映像で観たい。