高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ジュリアン・デュヴィヴィエ『白き処女地』(1934)

私事ではあるが、もっぱら「宗教」に関心がある。正確には、宗教そのものというより、ものの発想の仕方、と言った方が正しい。それはとどのつまり、文化の違いに行き着く。この『白き処女地』も、好きなジャン・ギャバン目当てで見たはずなのに、今でも記憶に残っているのは、結局、カトリックの世界なのであった。しかもこの映画のラスト、希望を見出す人もいるだろうし、救いようのないペシミズムだと感じる人もいると思うのである。

舞台はカナダのケベック。フランスの開拓民の物語である。過酷な自然。開拓にまつわる労苦。エルマンノ・オルミの『木靴の樹』でも感じたことだが、なぜ宗教が生まれたか、なぜそれを人間が必要としたのかがわかる。はっきり言って、神に祈る以外にない日々なのである。

ヒロインのマリア(よくある名前だとはいえ象徴的)は、マドレーヌ・ルノーが演じています。この人、マルグリット・デュラスがすごく褒めていて、いつか見たい、見たいと思っていた女優さんであります。ところがわたくし、浅はかなことに、この人があのジャン=ルイ・バローの奥さんで、ルノー=バロー劇団を主宰していた大女優であったことをすっかり失念しておりました。つまりデュラスを読む前に知っていたのだ(映画歴の方が古いので)。見ている最中に思い出し、私は、自分を強くなじった。

このマリア一家、開拓地のなかでもとりわけ奥まった場所に住んでいる。過酷すぎるにもほどがある。そして、ジャン・ギャバン演じるフランソワとマリアが恋に落ちる。他にも、近所のやはり開拓民の素朴な男と、洗練された都会の青年がマリアに思いを寄せている。

フランソワは毛皮を扱うことを生業としていて、いわば流れ者。夏にはまた戻って来ると約束してマリアの元を去ります。ここからがもうね、すごい。マリアは、無事にフランソワが帰って来るように、毎日毎日、敬虔な祈りを捧げるんですわ。たしか、誰にも邪魔されずに聖母マリアの名を千回誦したら願いが叶う、だったと思う。

ところが、その祈りが達成された直後、フランソワが死んだという知らせが来る。フランソワはどうしてもマリアに会いたくなり、冬の山を無理に越えようとして遭難したのだ。

マリアでなくても、観客はここで愕然とする。神などいない、と思ってしまう。加えて、司祭のマリアに対する態度がまた横暴。それなのに、マリアだけではなく、誰も信仰を捨てたりすることがない。ここに私は感動したわけです。

終盤、マリアの母親が無残な死に方をする。なんせ山奥。医者も来られないような雪の深さ。倒れたときはすでに手遅れ。この母親、夫にしたがってこんな奥地まで来て、それでも不平不満を言わなかったという設定。ところが、いざ臨終というとき、若い頃の華やかな集いや、親しく遊んだ男たちの幻影を見る。夫なぞ、名前すら呼ばれないのだ。

ラスト、マリアは近所の素朴な(冴えない)男からの求婚を受け入れ、この地に生きることを決める。都会の誘惑などを振り捨て、地に足着けて気高く生きるマリア、と見るならば、これはある種宗教的な「希望」だろう。しかし、マリアの決断が、いずれ母親のような最期を迎えることを暗示しているのなら、そこに神の「救い」はない。

これだけの内容が入ってこの映画、73分。デュヴィヴィエのカット割りの巧さ、スピード感ときたら!季節の推移はそれぞれほぼワンカットで進行させる。恋に落ちるのは、目と目が合ったその瞬間。