高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

清水宏『按摩と女』(1938)

66分と短い映画だが、ロマンティシズムなるものを凝縮したような映画。

『有りがたうさん』を観た時も思ったけど、清水宏というのはなんつーか、「天才」を感じさせる監督。即興性のきらめきみたいなものがある。

主役の徳市を演じる徳大寺伸が、はっきり言って神レベルの演技である。本物の盲人なのかと思って、いろいろ調べちゃいましたよ。

しかも、かなりの二枚目ときやがった。

 山奥の温泉場。そこで働く按摩の徳市と、客としてやって来た謎の女(高峰三枝子様。今回思ったのは、「ザ・戦前」。これぞまさしく戦前の美人。当時はモダンで売っていたはずなのに、今から見ると純日本風美人以外の何ものでもない)とのやり取りを軸に、ハイキングに来た男女の学生や、按摩たちの日常生活がユーモラスに描かれる。

  徳市は、女に惹かれる。そのうち、あちこちの宿で盗難事件が起こる。徳市は、女の仕業ではないかと疑う。このあたり、非常にテンポもよくて、スリリングだし、何よりせつない。

佐分利信とその甥(この子が面白い)も、湯治客としてここに来ていて、やはり女に惹かれてしまい、ずるずると滞在を伸ばしたりする。

しかし、女はまったくつかみどころがない。

疑惑は深まる。

  一等美しいのは、往来で、徳市と女がすれちがうシーン。

わたくし、涙が止まりませんでした。

徳市は、女に呼ばれて旅館へ行ったのに、女が外出していることを不審に思う。

女は、徳市に気づかれたことを察し、振り返りながらその場を立ち去る。

これが、まあ、徳市の女への疑惑を生むきっかけになるわけだけど、それ以上に、決して結ばれることがない愛みたいなものが、寸分の隙もなく表現されているわけです(あれです、泉鏡花の『外科室』で、貴船伯爵夫人と高峰が、公園ですれちがってひと目で恋に落ちる場面みたいなもんです)。

そして、このシーン、セリフ一切なし。

 徳市は、按摩として、たやすく女に触れることが出来る。

でも、真の意味で、女を手に入れることはできないのである。

 ラスト近く、警察の手がまわったと知った徳市は、女に逃げろとすすめる。

しかし女は、自分は窃盗犯ではなく、妾であり、旦那から逃げて東京からここへ来たのだと打ち明ける。

ここでの一連の徳市の演技、セリフ(「目あきの目はだませても、めくらはだませない」とか)、とにかく、すごいとしか言えない。

一途というのとも、純粋というのともちょっと違う。

戦前の作品だからなおさらなのですが、按摩という役どころは、言ってみれば、蔑まれたり、軽んじられて然るべきもの。

徳大寺伸は、そうした姿はもちろんのこと、精神性、聖性もちゃんと感じさせる演技なわけです。

  考えてみれば、表現の世界で、聖性をひとりの人間に具現化する場合、何らかの障害を持っている設定がほとんどなんだから(ドストエフスキーとかさあ)、つまり、この映画自体、いろんな意味で、王道中の王道なわけだ。

  翌朝、女は温泉場を去る。

同じ馬車に、警官と窃盗犯が乗り込む。

後を追う徳市。

走り去る馬車。

で、終わり。

  これをリメイクしたのが、草彅剛の『山のあなた~徳市の恋~』なわけですが、紙数が尽きたのでここで終わりにします。