前の記事が陰惨なので、早めに下の方へ、下の方へと送ってしまおうと思います。というわけで映画のお話。
1957年の大映映画。原作は有名、もちろん吉川英治。長谷川一夫、市川雷蔵、山本富士子、中村伸郎、滝沢修などの豪華キャストであるが、もちろん観た目的は淡島千景。思えば、おケイちゃんのおかげで、B級?映画の裾野が広がったのだから感謝すべき。おケイちゃんは忍者の隠密の娘で、行方不明の父を探しているという設定。名前は「見返りお綱」。
うん、忍者が似合っている(そう言われて嬉しい人はあんまりいないだろうけどさ)。前に観た『武蔵と小次郎』より、当然動きが多いので、身のこなしの美しさを舐めるように(おい)堪能できる。そして1957年という、絶頂期の美しさ。時代劇にも慣れて来た感じである(親か)。『武蔵と小次郎』より自在な感じ。
しかし、この人のすごさは、松竹なら松竹、東宝なら東宝、大映なら大映らしい演技をすること。これには参った。結局、監督の演出で変わるのだろうけど、明らかにこの作品は市川崑の『日本橋』を最初に観た時に感じたような、大映らしい演技。
気風の良い役がよく似合う。もしくは、情念を胸に秘めた、『早春』や『鰯雲』みたいなもの。気風の良さには、当然、コメディーも入る。動きが多いこと、タンカを切るところ、この二つの魅力は、ちょっと他の女優では観られない。やはり基本は江戸っ子なのである。
それにしても、市川雷蔵、カッコよかったです。みなし児の剣術使い。長谷川一夫の隠密にライバル心を燃やす。この人の人気の秘密は、実にこの「みなし児」の雰囲気にあるのであると思うのだが、いかがでしょうか。長谷川一夫は、まさにスター、という感じ。この二人に愛される?役どころのおケイちゃんは、女冥利に尽きるだろう。
しかし、マキノ、衣笠とも、カット割りその他、ああ、昔の映画だ、と強く感じさせる。つまり、映画が出来たころの、「見せる」ことの面白さを考え抜いた映画。小津みたいな独特のリズムやスタイルがあるわけではないけど。ドラマではなく、「カツドウ」、そんな感じ。
市川崑ぐらいになると、もっとテクニックを駆使した映像美になる。映画はおおむね、人生派(ドラマ派)と技巧派に分かれるのではないか。ま、文学も同じだけど。この問題は、もう少し追究する必要がありそう。
さて、おケイちゃんの顔の小ささと、目のきれいさ(茶色い)は、はっきり言って異常なレベルである。あと、原作を読んでいないから何とも言えないけど、吉川英治って、女を描けない作家だな、たぶん。女が男社会の添え物にしかなってない。
それからラスト、時代劇だから仕方ないのかもしれないけど、書き割りすぎ。みんなが密書をめぐって命を落とす。最後の最後、長谷川一夫は「平和のため」それを破り捨てる。私はこれを見た瞬間に腰が抜けましたね。おい、それのために、おケイちゃんのお父さんは死んじゃったんだぞ!お富士さんも!と思った観客は、少なくとも三人はいるはず。
ドラマの掘り下げがないのは正直痛い。それなら、『武蔵と小次郎』の方がマシだった。あれ、ドラマ=女が描けている、なのか???一理あるかもしれない。「女が描けていない」とは、近代文学においては、男性作家へのけなし文句としては常套手段でもあるのだけど、たとえば時代物にしても、『大菩薩峠』がただの大衆文学じゃないのは、出てくる女たちの存在感がすごいから、なのは事実です。