高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

成瀬巳喜男『女の中にいる他人』(1966)

※ネタバレあります。

 

まず告白しておくが、アホなことに、『女系家族』での若尾文子の印象が強く、大映映画を観よう!なる企画を勝手に立ち上げ、ろくに見もせず借りたDVD、もちろん若尾文子の作品だと思い込んでいた(だいたいこの時代の映画はタイトルが紛らわしい。いわんや今の外国映画の、カタカナの羅列においてをや、である)。

で、プレイボタンを押す。

「TOHO MOVIE」の表示。あれ??そして本編が始まる。モノクロである。ここでやっと、自分の思い込みに気づく。川島雄三監督の『女は二度生まれる』と勘違いしたんでしょうね。そもそも大映映画を観よう!とは、あの朱色というかオレンジというか、ようは大映カラーを堪能しようというのが主たるコンセプトなので、白黒画面が飛び込んできた瞬間の今回の脱力感は、ちょっと言葉になりませんでした。

はたして、そこには京マチ子山本富士子も、ましてや若尾文子もおらず、新珠三千代小林桂樹三橋達也の、もうガチガチの東宝・成瀬映画なのであった。

中北千枝子の名でトドメを刺される。

しかし、映画自体は面白かったです。ファーストショットから、目が釘付けになりました。思いつめた表情の小林桂樹が、路上でタバコに火をつける。その手がそのまま次のカットになり、今度は、レストランでビールを飲む小林桂樹になる。

つくづく、映画は編集だ、と思った瞬間。

ワンカットワンカットが、時に涙ぐむほどに美しい。モノクロなのに色がわかる。想像させる。東京、鎌倉、横浜。なぜこんなに美しいのか。家のセットも芸術品である。構図もだ。特に感心したのは、三橋達也の妻・さゆりの葬式。火葬場で、骨になるのを待つ3人(小林、新珠、三橋)の座るテーブル、奥に人物を配置し、カメラはかなり手前に据えてある。最奥の窓の外には降りしきる雨。

テーブルの手前には、けっこう重要人物の役回りである草笛光子がいて、カメラは目線になっている。つまり、画面に映っているのは3人のみ。草笛はここで、さゆりの男が小林桂樹だと気づく。

新珠三千代が美しい。何ひとつ欠点のない(!)完璧な妻。清楚で美しい、でも色っぽい。何を着ても美しい(しかし、わが淡島千景ことおケイちゃんとはちょっと違う。キマッている、というのではない。そうだ、地味な服装が、女という生き物の情念を覆っている感じ。おケイちゃんだと、衣装がおケイちゃんのものになってしまう)。

しかし、物語は、小林桂樹が妻に罪を告白してから、妙にだれる。夫・妻のエゴが剥き出しになる。女の情念が噴き出す。だがそれが物語のバランスを崩してしまう。それに引きずられるように、夫は逆に良心の呵責に耐えられなくなる。

罪の発覚を恐れる夫、疑う親友、何も知らない妻……という、抑制された演技を見せなければならない前半の方が見ごたえがありました。観客も、たぶん小林桂樹が殺したんだろうなと思いつつ、けっこうハラハラして見ることになる。

だから、明るみになった時点で、ちょっと安っぽくなってしまう。それは、成瀬の演出が、基本的にはいかにもドラマティックなものではないからかもしれない。成瀬の真骨頂は、『浮雲』で、高峰秀子がラーメンをすすりながら、「私の貞操も返してほしいもんだわねえ」と、さらっと言うような演出にあると思う。

しかし、主演の3人は、つくづくいい俳優だと思います。だいぶん年を取ってから、土曜ワイド劇場、西村京太郎シリーズで十津川警部を演じていた三橋達也しか知らなかった私には、『洲崎パラダイス・赤信号』の彼はちょっとした衝撃でした。母性本能をくすぐる、めっちゃいい男です。小林桂樹も、ほんと演技の幅が広いですよね。社長シリーズとか、他に誰がやれるんだって感じ。

この映画、物語の前半は梅雨の時期で、その雨のシーンがまた印象的。ひたすら、雨。成瀬映画には雨がよく似合う。その梅雨明け、クライマックスの花火(妻が夫を殺す)と、季節の移り変わりが重ねられているのは、どれも鮮やかでした。いい監督は、小津、成瀬と、季節感を大事にする。

ちょうど、新しいカメラを買ったばかりで、モノクロに敏感になっていたから、よけい、ワンカットワンカットが鮮やかに見えた。ただのモノクロじゃない。とにかく諧調がすごいのである。

それにしても、横浜には犯罪がよく似合う。この映画然り、黒澤明『天国と地獄』然り。その横浜に、私は住んでいる。