高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

溝口健二『祇園囃子』(1953)

私は、もしかして、もしかすると、小津より溝口が好き? というか、溝口健二が好きだということをはっきりと自覚させられた作品。代表作というわけでもないのだが、その理由は何かと言ったらもう映像美。構図。モノクロームの美しさ。この人の眼は、絶対にモノクロ仕様だったはずだ。

ワンカット、ワンカットに身悶えするので、映画が終わったころにはたとえ90分弱でもどっと疲れが出る。『祇園の姉妹』もそうだったけど、それには及ばないこの作品だけど、もうね、構図がね、キレがあってね、美しい。とにかく、空間把握がすごいのだ。

映画は、祇園の芸妓・美代春(木暮実千代)とそこに舞妓の修行にやってくる栄子のち美代栄(若尾文子)の物語。冒頭から田中春男が出ている。もうその時点で私としてはアタリである。どんなチョイ役でも田中春男がいるとテンションが3割は上がる(この田中春男ピエール瀧が似ていて、必然的に後者も私は好きだ)。

そして、浪花千栄子お茶屋のお母さんで登場。それにしても、『流れる』のなんどり(栗島すみ子)といい、「お母さん」はどうしてこうも怖いのか。西でも東でも、花街の「お母さん」は怖いと相場が決まっている。

木暮実千代は色っぽいし、身のこなしもきれいなんだけど、どうもこの役は合っていないような気がします。芸は売っても身は売らぬ、惚れた男と以外は寝たくないという古風な芸者。妹とも娘とも思う栄子のために体を張る。誇りも意地もある。……しかし、やっぱり『青い山脈』の能天気な芸者とか、『お茶漬けの味』の有閑マダムの方がいい。

すごい、と思ったのは、「いい」客である会社専務の楠田さん(河津清三郎!)に強引に迫られた若尾文子が、楠田さんの舌に噛みついてしまうシーンですね。口を押さえて転げまわる楠田さん。乱れた髪に無表情の若尾文子の口のまわりには血が付いている。怖えー!

 冒頭から、この若尾文子、どこかモッタリして、洗練されていない女の子なのである。こんな舞妓(芸妓)いるかなあと思ってしまう。ところが、この血まみれのシーンに至って、はじめてそのモッタリ感が「情念」となって輝く。あまりにも洗練された花街の女では、このシーンは逆に迫力に欠けるのだ。

河津清三郎の見せ場は、もちろんこの大怪我のシーンとその後の入院生活(さるぐつわを嚙まされている状態)。この人はお役所の神崎(いやらしいほどいやらしい役人)と癒着している。満面の愛想笑い。そして、神崎のもとに美代春を送り込む冷酷さ。男の世界だ。

祇園で遊ぶような男が一番大事にしているのは仕事と金、つまり地位と名誉と金、つまり権力と金。女に入れあげたりするような男はしょせん小者なのである(春男くんとか、栄子の実父役の進藤英太郎とか)。その対比が面白かった。なお、河津清三郎の部下の、典型的な中間管理職のサラリーマンが菅井一郎で、『麦秋』好きの人には何だか涙が出てくるような役である。