私は確かに、金に縁のない人生を送ってはいるが、これはそういう類いのお話ではない。
以前、正月に、帰省した折のことである。妹と、算数の話になった。
何でも、当時小学校3年生になる自分の息子(つまり私の甥っ子)から、「ゼロってなあに?」と聞かれて、答えるのに大変苦労したらしい。
ゼロというのは、考えれば考えるほど感動に値する代物で、人類が発明したなかでも最大級のものだと思うのであるが、これを説明しろと言われて、はたして何人が明確に定義できるであろうか。
ゼロがわからなければ、当然、この後に学ぶはずのマイナスの概念も危うくなるわけで、妹は、いろいろ調べてどうにかこうにか説明したらしいが、このとき、私が思い出したのは、やはり自分が小学校のころ、円を習ったときのことだった。
今ではどうだか知らないけれど、このとき、確かコンパスの使い方もいっしょに学んだはずである。生徒はみなコンパスを買わされた。私たちのそれは、芯ではなく、短めの鉛筆をセットして使う形のものだった。先生は、黒板用のバカでかいコンパス(何か凶暴な感じがした)を使っていた。チョークで線を引くやつである。
当然のことながら、生徒は、半径、直径、円周、円周率などの用語、円の面積の求め方などをひと通り教わった。
ところがある日、なぜだろう、「ノートにコンパスで円を描き、その半径をはかりなさい」という他愛もない課題に、私は突如混乱し、はたと止まってしまったのである。
半径は、円の中心から円周までの直線なわけだが(書いていてむなしくなってきた)、中心はまだいいとして、円周がどこにあるのかがわからない。
ノートに描いた円は、鉛筆の芯だけの太さがある。その線の内側なのか、外側なのか、はたまた中間なのか。そういえばさっき先生は、コンパスに使用する鉛筆をちゃんと削っていない、これでは半径がきちんとはかれないではないか、と誰かに注意していた。
私は慄いた。私の円周の「太さ」はこれでいいのか。
同級生からはいじめられており、学校ではほとんど口をきかないような子どもだった私は、質問など当然できるはずもなく、苦しまぎれに、ちょうど中間ではかることにした。ところが、どうだ。今度は、定規のメモリの線の太さが気になりだしたのである。
体が冷たくなっていくのがわかった。
黒板に描かれた円を使って、先生が説明を始めた。私は顔を上げた。一瞬、めまいに似たものを感じた。
先生がチョークで描いたあの円の円周の太さはどうだ! しかも、みんなにわかるように円の中心が打たれているけど、あんなに大きくて、中心はいったいどこになるんだよ!
私のこの疑問は、約30年後、知人の数学教師と話をしたときに、難なく氷解した。
つまり、完全な円というものは、数式の中にしか存在しないのである。
もう少し早くわかっていれば、私はもうちょっと数学ができたのに、と思っても、後の祭りだった。
コンパスで描いた円はもちろん、どんなに精密に描かれたような円でも、それは円ではない。
可視化された直線もなければ、立方体も円錐も三角錐も、現実に形あるものとしては存在しない。
当然、定規も嘘。まやかし。
「山」という漢字があっても、この字にそっくり見合うだけの山が、現実には存在しないのと、結局は同じである。
こういうところに、学問の真髄があると思うのだが、はたしていかに。